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三国志Ⅳ  界橋の戦いと江南の騒乱

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 董卓追討軍瓦解後、袁紹は弟袁術と対立します。というのも袁家は複雑で同じ三公を務めた袁逢の子でありながら袁紹は庶兄、袁術正室の子で次男ながら嫡子でした。ところが同じ一門で朝廷の高官だった袁成に子がなかったため庶兄の袁紹が養子に出され袁成家を継ぎます。そういう経緯から、袁一門の中での嫡流争いがあったのです。いずれ両者は対立する運命にあったと思います。
 
 
 袁紹は、さすが名門の御曹司だけあって謀臣に田豊・沮授・審配・郭図・逢起、武官に顔良文醜張郃などを擁し多士済々でした。地盤を固めるために豊かな冀州を治める韓馥を追い出し国を乗っ取ります。三国志演義ではまず北平の公孫瓚に「共に冀州を攻め領土を分け取りしよう」と持ちかけ、韓馥には逆に「公孫瓚が貴国を狙っているから私が守ってあげよう」と騙して乗っ取ったとされますが、その前に公孫瓚は袁紹と対立する袁術と結んでいたという話もあります。
 
 
 真相は分かりませんが、袁紹公孫瓚は冀州支配を巡って激しく対立しました。192年、両者は河北の界橋というところで激突します。公孫瓚は歩兵三万の左右に自慢の騎兵隊各一万を配し総勢五万。一方袁紹軍も数万の軍勢を動員したとされます。
 
 最初、白馬陣と呼ばれる公孫の騎兵隊に押しまくられた袁紹軍は敵を自陣深く引き込んで弩弓隊千名が待ち伏せし壊滅的打撃を与えます。演義では危機に陥った公孫瓚を、袁紹を見限って浪人し故郷に帰る途中の豪傑趙雲(字は子龍)が助け、同じく公孫瓚を助太刀した劉備と運命的な出会いをするシーンがありますが、そういう事もあったかもしれません。
 
 結局両者の戦争は膠着状態に陥り、長安に遷都していた太師(もともとは周代の三公の一つだが漢の三公を超える存在として名乗っていた)董卓の斡旋で和睦します。袁紹の今までの宿敵にも平気で尻尾を振る一貫性のなさが趙雲に見限られた理由でしょう。
 
 
 一方、荊州南陽から淮南(淮河下流地帯)に勢力を張っていた袁術袁紹の与党である荊州劉表を叩くため、彼に深い恨みを持つ長沙の孫堅を動かします。孫堅袁術に対しても複雑な感情を抱いていましたが、寄らば大樹の陰でこの頃は袁術の傘下に入っていました。
 
 孫堅は数万の兵を軍船に乗せ長江を北上、まず劉表配下の江夏太守黄祖を攻めます。黄祖孫堅軍の武勇の前にあえなく敗れ孫堅軍はそのまま漢水を遡って劉表の居る襄陽を囲みました。ところが周囲を深い堀で囲まれた襄陽城は難攻不落を誇りなかなか陥落しませんでした。
 
 攻囲戦は長期にわたり、劉表袁紹に援軍を求めるため夜陰使者を送ります。それを察知した孫堅は手勢を率い追撃しますが、峴山というところで逆に待ち伏せに遭い矢を受けて絶命してしまいました。享年37歳。江東の虎と呼ばれた英雄のあまりにもあっけない最期でした。
 
 大将の死で孫堅軍は瓦解、まだ少年だった彼の長男孫策袁術を頼って落ち延びます。
 
 
 次回は逆臣董卓の最期と漢室の混乱を描きます。