古来、官渡の戦いにおける両軍の兵力には諸説あってはっきりしません。一番多いのは三国志演義の袁紹軍75万、曹操軍7万、一番少ないのは正史三国志で袁紹軍10万、曹操軍1万。演義は多すぎ、正史は少なすぎます。
現実的な数字として当時の兵站能力も加味すると袁紹軍2~30万、曹操軍20万前後というのが妥当でしょう。と言いますのも人口からいうと曹操の支配下にある司隷、豫州、兗州、徐州は袁紹支配下の河北四州に勝るとも劣らないのです。いくら中原が戦乱で荒れ果てていたとはいえ兵力1万というのはあり得ません。
「それはいけません。袁紹はここを天下分け目と強い決意で挑んでいます。ここで撤退したら敵は嵩にきて勢いで押し切られるでしょう。袁紹は見かけは立派ですがしょせんは優柔不断な男です。対して殿は知謀深く天子を擁し大義名分があります。ここは我慢のしどころですぞ」
と励ましました。
そのころ汝南では劉備が降将劉辟らと語らって蜂起し許都を窺う姿勢を見せます。曹操は一族の曹仁(従兄弟)に一軍を与えこれを討たせました。劉備はここでも敗北し、同じ宗室であった荊州の劉表を頼って亡命します。
官渡の対陣は長引きました。ますます曹操軍の兵糧は欠乏します。曹操はたまらず荀彧に兵糧を送ってくれるよう手紙を書きました。ところが運の悪い事に手紙を持った使者が袁紹軍に捕えられます。袁紹の参謀の一人許攸(きょゆう)は、この手紙を持って袁紹のもとへ赴き「今こそ曹操を討つべきです」と進言します。ところが優柔不断の袁紹なかなか決断がつかず、さらに許攸と日ごろ仲の悪い郭図が
と讒言したため
「その通りであった。許攸よ、要らざる言を吐くな。自陣で謹慎しておれ」と叱りました。
怒った許攸は、(よしそれならば袁紹に目に物見せてやる)と秘かに自陣を抜け出し曹操の元に逃亡しました。日頃重く用いられない事への焦りで曹操と同郷だと言ったり仲が良いと言っていたのです。曹操は許攸を歓迎します。
「袁紹は君を重く用いなかっただろう」とからかうと、許攸は真顔で
「私は仕える君を誤りました」と嘆きます。続けて
「時に丞相、貴軍の兵糧はどれくらいですか」と尋ねました。
「そうだな、半年くらいか」と曹操がとぼけると
「この許攸をそこまで信頼して下さらんか。兵糧は欠乏してござろう」と詰めよります。
「いや、すまん。実は一月あるかどうかだ」
許攸はこの答えに満足せず
「嘘を仰い。数日分もあるかどうかではありませんか」
「今、袁紹は兵糧の大半を烏巣に蓄えています。それを守る淳于瓊(じゅんうけい)は大酒飲みの愚将です。丞相が精兵を率いて奇襲すれば敵は潰走すること間違いなしでしょう」
曹操軍の諸将は許攸の進言を怪しみますが、曹操はこれを信用し即座に行動に移しました。この決断が戦いの帰趨を決します。精鋭歩騎五千を自ら率いた曹操は袁紹軍の増援に偽装し烏巣に接近するとこれを奇襲、焼き討ちしてしまいました。
官渡に向かった袁紹軍は待ちかまえていた曹洪・夏侯惇らにさんざんに撃ち破られます。また烏巣に向かった一隊も曹操の奇襲を受け壊滅しました。官渡攻撃を進言した郭図は責任を問われる事を恐れ攻撃部隊を率いていた張郃・高覧らを袁紹に讒言し彼らの裏切りで敗北したのだと吹聴しました。これを伝え聞いた張郃らは激怒して曹操に降伏します。
大軍を誇っていた袁紹軍でしたが、内部はがたがたで結局自滅するような形で敗北します。袁紹の本陣が真っ先に逃げ出すと彼を見限った諸将は続々と曹操に降伏しました。それらを加え数十万に膨れ上がった曹操軍は黄河を渡って追撃し、結局袁紹とともに本拠鄴(ぎょう)に辿りついたのはわずか数千でした。
袁紹の本陣に至った曹操は、発見した機密文書の中に自軍の将達が袁紹と内通している証拠の手紙を多数発見、押収します。側近の荀攸は怒って「これは怪しからん事です。この証拠を突きつけて裏切り者を処刑しましょう」と進言しました。
それに対しにやにやしながら曹操は言います。
「余とて袁紹が盛んな時は気が気ではなかった。ましてや凡人では仕方あるまい」といいながら文書をすべて諸将の見ている前で焼きすてさせました。
次回は官渡以後の袁一門の動向、そして呉国に訪れた暗雲を描きます。