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古代イランの歴史Ⅱ  メディア王国からアケメネス朝の成立まで

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 メディアとはイラン北西部エクバタナ(現在のハマダン)あたりの地名です。メディア王国を築いた人々はアーリア人でした。
 
 アーリア人中央アジアからイラン高原に移動を開始したのは紀元前2000年頃だといわれています。だいたい1000年くらいかけて徐々に浸透し紀元前1000年前後には高原の多数派になっていました。ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、デイオケスという人物がアーリア人を纏めてメディア王国を建国しました。
 
 デイオケスは、エクバタナを都に定め七重の城壁で囲んだそうです。紀元前714年メディア王ダーイウィックは、強国アッシリアと対抗するためアッシリアの北、現在のアルメニアにあったウラルトゥと同盟します。しかし当時オリエント世界最強の軍事力を持っていたアッシリアサルゴン2世の前に一敗地にまみれ、その後しばらくメディア王国は泣かず飛ばずの時代を迎えました。アッシリアの属国化していたのかもしれません。
 
 メディア王国は一時スキタイの支配を28年受けたという記録もありますから、アッシリアとの戦争の打撃は大きかったのでしょう。サルゴン2世から始まるアッシリアの全盛期の間メディア王国の記録はほとんど残されていません。
 
 しかし、満つれば欠けるが世の習い。史上初の世界帝国を築いたアッシリアもアッシュールバニパル王の治世を最後に衰退期に入ります。アッシリアの退潮を決定的にしたのは帝国の重要な領土であったバビロニアにおいてカルディア人の将軍ナボポラッサルが独立し新バビロニア王国を建国した事でした。
 
 さしものアッシリアも領土のあちこちで反乱が相次ぎその対処に追われていました。アッシリア支配下の異民族に対し武断政治で臨みます。国家の軍事力が強力な間はそれで良かったのですが、支配民族に不満がたまるためいったん崩れ出すと留まるところを知りません。
 
 メディア王キュアクサレス2世は、紀元前612年新バビロニアと同盟を結びアッシリアの本国へ侵攻します。紀元前609年アッシリアの首都ニネヴェはメディア・新バビロニア連合軍によって陥落しました。アッシリア軍は騎兵、歩兵、戦車、工兵と分かれた当時としては最先端の軍事力を誇っていましたが、さしものアッシリア軍も疲弊していたのでしょう。騎兵を主力とするメディア軍の前に敗れ去ります。
 
 
 世界帝国アッシリアの滅亡は、権力の空白地帯を生みました。その中で台頭したのはイラン高原を領土とするメディア、新バビロニア(カルディア)、アナトリアに興ったリディア、エジプトの四国でした。世に四大国時代と呼びます。
 
 
 しかしその時代は長続きせず、まもなく新バビロニアはシリアの支配権を巡ってサイス朝エジプトと抗争を始めました。メディア王国もアナトリアに進出しリディアとの戦争を開始します。両軍はハリュス川で戦いますが戦闘中に日食が起こったので恐れ慄きハリュス川を国境とする事で和睦します。
 
 
 四大国で一番の強勢となったのは新バビロニアでした。エジプトとの戦争に勝ちシリアを版図に加えナボポラッサル王の子ネブカドネザル大王の時代に全盛期を迎えます。有名なバビロンのイシュタル門や空中庭園は彼の時代に建設されたものです。一説では人口百万を数える世界最大の大都市でした。
 
 
 一方、メディアもそれに次ぐ力を持ちます。通常ならここで新バビロニアとメディアの抗争が始まるのですが対アッシリア戦争で結んだ同盟がまだ生きていたのでしょう。両国の間に波風が立つ事はほとんどありませんでした。
 
 
 メディア王国は、大国化するにつれ多くの国を服属させていきます。その中の一つに旧エラム王国の一都市を起源とするアンシャン王国という小国がありました。その若き王キュロス2世はメディア王国に対し反乱を起こします。紀元前552年アステュアゲス王は将軍ハルパゴスに命じてこれを討たせました。圧倒的な大軍であったメディア軍でしたが、突然のハルパゴスの裏切りで全軍崩壊、キュロスはそのまま王都エクバタナに進軍します。
 
 メディア王国最後の王アステュアゲスは捕えられて処刑されました。こうしてメディ王国は滅亡します。紀元前550年のことです。
 
 
 このキュロスこそアケメネス朝ペルシャ創始者でした。ハルパゴスの裏切り劇には伏線があり、キュロス2世の勝利にも関係するので次章で詳しく説明します。
 
 
 次回は、史上二番目の世界帝国アケメネス朝ペルシャの歴史を語ります。