

イラン高原はカスピ海からペルシャ湾の間にある高原で、その西には古くから文明を育んだメソポタミア平原があります。メソポタミアとはザクロス山脈で隔てられ高原東部とはカヴィール砂漠、ルート砂漠で隔てられています。
カスピ海のすぐ南にはエルブルズ山脈という5000m級の山々が連なる大山脈がありイラン高原との境を成します。中央部は乾燥した平原ですが、平均高度1000mもあるため夏それほど暑くならず意外と過ごしやすいそうです。
また、エルブルズ山脈とカスピ海の間はマザンダランと呼ばれる南北に狭い地域で、温暖で雨も多く豊かな穀倉地帯が広がります。現在と違い古代はイラン高原との交通は困難で高原の人々はマザンダランを夢の国とか、巨人や異人の住む不思議の国と見ていたようです。
イラン高原に人が最初に住んだのは紀元前7000年頃だといわれます。もともとシリアという世界最古の農耕が始まった地域、そしてメソポタミアという古代文明が発祥した地域に近くそれらの人々が移住してきたのでしょう。
イランとはアーリア人の自称で、ギリシャ人はペルシャと呼びました。このイラン地域が歴史に登場したのは意外と古く紀元前2700年頃でした。メソポタミアに最初の文明を開いたシュメール人の記録に「エラム」という国名が登場します。「エラム」とは高地の国というような意味だそうです。
シュメールの有名な神話ギルガメシュ物語にも英雄王ギルガメシュがエラムまで侵攻したという一節があります。メソポタミアの国家はしばしばエラムに侵攻しました。というのもメソポタミアでは手に入らない木材や鉱物資源が豊富にあったからです。
エラム王国はなかなか強力で、何度かメソポタミアやバビロニアの王たちから侵略を受けますが決して屈することなく独立を保ちます。紀元前2000年頃から紀元前1200年頃まではこのような状況が続いたようですが、次に興った初の世界帝国アッシリアのアッシュールバニパル王(在位BC668年~BC627年)は、エラム王国へ本格的に侵攻し、この戦いでエラムは壊滅的な打撃を受けます。この後エラム王国がどのように滅んでいったかは分かっていませんが、イラン高原にアーリア人の流入が続きいつしか高原の主人はアーリア人になっていました。
エラムの次に高原で成立したメディア王国はアーリア人の国家だといわれます。メディア王国の中心地はイラン高原西北部のエクバタナ(現在のハマダン)でしたから、エラム王国は弱体化した後メディア王国へ吸収されたのでしょう。