

皆さんはフビライ汗(ハーン)【1215年~1294年】という人物の名を聞いたことがあると思います。モンゴル帝国第5代大汗であり元朝の初代皇帝世祖。日本史では元寇を起こした憎っくき敵として記憶している人も多いと思います。
政治的立場では絶体絶命のフビライでしたが、圧倒的多数の軍隊を握っていたというアドバンテージがありました。大モンゴル帝国の東半分の兵力。しかも人口過密地帯の華北華中を手中に収め経済力でもアリクブカ陣営を圧倒していました。総兵力はおそらく数十万から下手したら百万は超えていたかもしれません。
一方アリクブカ陣営は、実戦から離れて久しいモンゴル貴族たちの兵。
フビライのもとには、漢人、色目人、女真人やモンゴルの成長過程で服属した遊牧民族たちが集っていました。彼らはアリクブカが後継者になれば追放されるか良くても冷遇されるかでした。しかしフビライが勝てば、その戦争で功績をあげることができ新政権で高い地位に就くことができます。
こうして戦略的に優位に立ったフビライは、やっと重い腰を上げ1260年北上を宣言します。
アリクブカはフビライに潜在的に敵対心を持つオゴタイウルス、チャガタイウルスと同盟すべきでした。チャガタイウルスはフラグの東帰こそ妨害しましたが、アリクブカから積極的働きかけがなかったためいまだに沈黙を保っていました。
1261年、北上するフビライの大軍を迎え撃ったアリクブカはシムルトゥ・ノールの戦いで大敗してしまいます。
モンゴル高原に敗走するアリクブカは、やっとチャガタイウルスとの連携を模索しますが後の祭りでした。しかもチャガタイウルスとの国境での小競り合いでチャガタイ家の人間を捕虜にしたばかりか殺すという致命的なミスを犯します。
アリクブカは命だけは助けられますが、二年後寂しく病死したといいます。
フビライは1260年即位のとき、国号を「元」と定めます。漢人官僚を集め中国風の中書省をはじめとする官僚制度を確立、王朝の基礎を築きました。アリクブカとの内乱中の1262年山東省で漢人軍閥の反乱がおこりますが、これを鎮圧しかえって中国支配を強化しました。
国政の基礎を固めるとフビライは懸案の南宋攻略を再開しました。1279年には将軍バヤンによって南宋の首都杭州が陥落、事実上南宋を滅ぼします。高麗やビルマのパガン朝などをあるいは征服しあるいは服属させ空前の大帝国を築きました。元の拡大過程で起こったのが二度にわたる元寇です。(文永の役1274年、弘安の役1281年)。
しかし晩年は、征服地で反乱が相次ぎ日本への三度目の遠征は沙汰やみになりました。フビライは1294年崩じます。
1388年最後の皇帝トグス・テムルが殺されフビライ直系の血は絶えました。フビライ家断絶後はアリクブカの子孫が汗位を継いだりしますが、その後フビライ家が復権したりして良く分かりません。15世紀末明を苦しめたダヤン・ハーンはフビライ家の子孫(ただしオゴタイ家の後裔とも?)だといわれています。