

東日本の皆様が地震・津波の大災害でたいへんな時期に、何を能天気な!とお叱りを受けそうですが、菊池郡菊陽町に住む友達が三月いっぱいで引っ越すことになり、そのお手伝いの見積もり(笑)のついでに先日寄ってきました。
場所は玉名郡玉東町。役場の裏山にある肥後宇都宮氏の城跡、小森田城です。
下野宇都宮氏の一族で、豊前宇都宮(城井)氏の分かれ。南北朝時に栄えたのが肥後宇都宮氏です。菊池氏、阿蘇氏とともに肥後における懐良親王方の有力武将として活躍しますが、正平十四年(1459年)、足利直冬、託摩宗直、川尻幸俊の連合軍に攻められて落城、肥後宇都宮氏の当主、三河守隆房は城を枕に討死。享年31歳だったと伝えられます。
由来は以前の豊前宇都宮氏余話で書いていますのでご参照ください。
いやあ、肥後宇都宮氏、豊前宇都宮氏、小森田氏の関係が分かってよかった!といっても誰も興味ありませんよね(苦笑)。
城探訪らしく、城跡の記述を書いておきますね。
場所は役場の裏山で車で訪れる場合は国道208号線沿いの玉東町役場の駐車場に置くと便利です。案内板はありませんので道なりに登って有栖川の宮督戦碑を目指してください。すぐ分かります。
石碑のあるところが本丸跡です。国道から見ると比高20メートルくらい。小高い丘ですがあまり大規模ではありません。城全体でも500人も籠ればいっぱいになるくらいです。
おそらく西南戦争時に官軍の本営があったらしいので、そのさいに近代的野戦築城工事を施した形跡があります。戦国時代当時の遺構は私が見た範囲では分かりませんでした。本丸の一段低いところに二の丸があります。構造は単純な山城。規模も小さいです。近くにある稲佐城跡のほうが要害に見えます。
これはあくまで私見ですが、小森田城は平時の城で、木葉(このは)山頂に詰めの城があった可能性があります。そうでない場合、簡単に囲まれて落城しそうな構造でした。崖はやや急俊ですが、規模が小さすぎて要害とはなりにくかったように感じます。木葉山を中心にして稲佐城までを包含した城塞群と想定した時はじめてある程度の防御力を発揮できたのではないでしょうか?
マニアックな郷土史ネタでした(苦笑)。申し訳ございません。