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フランスの真の女傑  「ヨランダ・デ・アラゴン」

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 最近ヨーロッパ中世史に凝ってまして、その流れでリック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」(Joan of Arc)を見たんですが、フェィ・ダナウェイが演じていたシャルル7世の義母(シャルルの正室マリーの母)ヨランダ・デ・アラゴン(Yolande d'Aragon 1384年 - 1442年)が非常に強烈に印象に残りました。


 
 実はこの女性、調べれば調べるほど傑物です。百年戦争の英雄と言うとジャンヌ・ダルクをすぐ連想しがちですが、もしかしたら彼女さえヨランダが用意した手駒だったのかもしれないのです。


 シャルル7世は、父6世が発狂し、母であるイザボー・ド・バヴィエールはそれを良いことに浮気の限りを尽くしていたため、7世自身ほんとうに父王の実子かどうか疑っていたそうです。敵であるイングランドもその噂を悪意を持って流したため王太子でありながらあまり人気もなく北フランスの大半をイングランドブルゴーニュ連合軍に奪われるという体たらくでした。


 しかしヨランダ・デ・アラゴンはそのような劣勢の王太子を「奇貨居くべし」と睨んで自分の娘を嫁がせました。


 ヨランダは今のスペイン東部沿岸一帯を支配したアラゴン王家の出身です。フランス大貴族でアンジュー公、プロヴァンス伯だったルイ2世・ダンジューに嫁ぎます。ルイは一時ナポリ王を称するほどの大領主でした。


 子供のうち成人したのは5人ですが、長女マリー・ダンジューは王太子妃に、次女ヨランドはブルターニュ公に嫁がせるなどなかなかの辣腕家です。


 当時フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態にあり、そこをイングランドに上手く衝かれたわけですが、南フランスに逃れてきた王太子シャルル7世を庇護し自分の娘を嫁がせたのは彼女だったと伝えられています。


 以後彼女は、娘とともに王太子の宮廷にとどまり助言をした、というより影の宰相として動かしていたというのが実情でしょう。



 優柔不断で弱気になっているシャルルの尻を叩き、ある時は実の母以上の愛情を注いでシャルルを支えたといいます。ジャンヌ・ダルク王太子に会わせるよう助言したのも彼女でした。


 自分の正当性に悩む王太子に、「神の使い」が正当性を保証し本人の自信を取り戻させるという演出ではなかったか?と指摘する後世の史家もいます。


 実際ジャンヌの故郷ドンレミ村はヨランダの知行地に近かったとも言われていますし。ヨランダならそのくらいやりかねないところがあります。


 しかしヨランダのおかげで、ジャンヌ・ダルクは神の使い「聖乙女」(ラ・ピュセル)として敗戦続きで意気消沈していた王太子軍の士気を高めることに成功したのです。


 要地オルレアンの解放、ランスでのシャルル7世の戴冠式とジャンヌの活躍のおかげでフランスは再び盛り返します。



 ヨランダはこの状況を一人冷静に見ていたのかもしれません。この時すでに王太子軍は莫大な戦費を費やし疲弊しつつありました。以後戦闘よりも外交交渉に精力を傾けるべきだと判断していたヨランダにとって、いつまでも子供のように戦争を訴えるジャンヌは疎ましい存在になってきていました。


 ジャンヌを切り捨てるようフランス国王になったシャルル7世に進言したのもヨランダだったと伝えられています。ヨランダは、ジャンヌを神の使いとして見ていなかったことになります。手駒に利用価値のあるうちは生かしておくが、邪魔になったら排除するという彼女の冷徹な論理が見え隠れするのは私だけでしょうか?
こうしてみるとジャンヌ=ヨランダの手駒説ががぜん信憑性を増してきます!


 ジャンヌは王からの援軍を受けられず宿敵イングランドに捕えられ魔女として火刑に処せられます。さすがにシャルル7世も良心が咎めたのか身代金を払ってジャンヌを救おうと動いたふしもありましたが、ヨランダの拒否で沙汰やみになったと言われています。



 ヨランダ・デ・アラゴンは現代の基準からみると、冷酷非情な鉄の女のように見られがちですがもし彼女がいなかったら現在のフランスがなかったのも事実です。世間一般からは好かれないでしょうが、非常に優れた頭脳と観察力を持ち、いわば女版リシュリューとして私は高く評価しています。