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ユグノー戦争Ⅱ  ヴァロワ朝とその周辺

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 ヴァロワ朝(1328年~1589年)はカペー朝第10代フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルに始まる家系です。シャルルの子フィリップの時1328年カペー朝嫡流が断絶したのを受けて即位しフィリップ6世となりました。ヴァロワ朝は王朝成立直後から百年戦争という試練を経験します。国難を排しようやく王権が安定してきた頃、イタリア戦争で両ハプスブルク家(スペイン、オーストリア)に挟撃され疲弊、そして宗教戦争ユグノー戦争で止めを刺されす。まさにヴァロワ朝の時代は波乱万丈の歴史だったといってもよいでしょう。

 ユグノー戦争勃発直前、フランス国王はアンリ2世(在位1519年~1559年)でした。父フランソワ1世の意思を継ぎイタリア戦争を継続しますがハプスブルクの優位は動かず1559年にはカトー・カンブレジ条約でイタリアにおけるフランスの諸権益を放棄せざるをえませんでした。

 アンリ2世自身は、優柔不断で気の弱い人物だったと伝えられます。むしろ彼の正室の方が有名です。彼女の名はカトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)。名前からも分かる通りイタリア・フィレンツェの大富豪メディチ家の出身でした。おそらくイタリア戦役でフランスは莫大な戦費を浪費し金銭的に苦しかったのだと思います。カトリーヌは莫大な持参金つきで嫁ぎフランスの国家財政を助けます。

 カトリーヌは勝気で男勝りな性格だったと伝えられます。彼女に圧倒されアンリ2世は愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに奔ります。政治を顧みなくなった夫に代わりカトリーヌが事実上のフランス国王として統治しました。

 当時、フランスでは2つの勢力が対立していました。一つはギーズ公を代表とするカトリック勢力。ギーズ家はフランス一の実力を持つ大貴族ですが、その歴史は意外と新しいものでした。ギーズ公爵家の成立は1520年です。ロレーヌ公ルネ2世の次男クロードが父からフランス内の領地を相続してフランス高等法院からギーズ公の称号を得たのが始まりでした。現在ではロレーヌ(ドイツ語読みロートリンゲン)はフランス領ですが当時はドイツに属していました。ロートリンゲン公はドイツでも有力貴族でフランス国内にも広大な領地をもっていたのです。

 新興貴族であるギーズ公ですが、閨閥は素晴らしくクロードの娘メアリー・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世に嫁ぎスコットランド女王メアリー・スチュアートを生みます。そのメアリーがアンリ2世の王太子フランソワ(後のフランソワ2世)と1558年結婚したことでギーズ公爵家は国王の外戚となり強大な力を持つことになるのです。当時の当主はクロードの長男フランソワ1世(ギーズ公フランソワ 1519年~1563年)でした。彼の姉はスコットランド太后メアリー。姪の女王メアリー・スチュアートはフランス王太子フランソワの正室。さらに弟はロレーヌ枢機卿シャルル、フランスにおける彼の立場は盤石とも云えました。

 フランス一の実力者、ギーズ公フランソワは次第にカトリックを信奉する貴族たちの代表となっていきます。一方、新教徒側の代表となったブルボン家はどういう家系だったでしょうか?実はこちらもカペー朝の支流から始まる由緒ある家系でした。ユグノー戦争勃発直前の当主はヴァンドーム公アントワーヌ(1518年~1562年)。フランスの有力貴族であるばかりでなくナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚してナバラ王も兼任していました。ちなみにナバラ王としてはアントニオ1世(在位1555年~1562年)と名乗ります。

 ナバラ王国というのは、ピレネー山脈を中心としスペインとフランスにまたがる小王国です。住民の大半はバスク人という少数民族。ただしこの頃は、ピレネー以南の領土をことごとくスペインに奪われピレネーの北に細々と残るのみでした。ただ小国とはいえ王号をもつ意味は大きくナバラ王室がプロテスタントに理解を示していた事もあってアントワーヌは新教側の旗頭として注目されることとなりました。

 ギーズ家とブルボン家の対立は、そもそもフランス国内での主導権争いが先にあって新教旧教の対立はその口実に過ぎなかったとも言えます。

 アンリ2世の治世の晩年、カルヴァン派は侮りがたい勢力となって行きました。さすがのアンリ2世も王妃カトリーヌに尻を叩かれ異端審問の法廷を設け弾圧に転じます。王室がカトリックの権威のもとに成り立っている以上これは当然の処置でした。

 そんな中、1559年6月30日事件が起こります。アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリヴェルト、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン国王フェリペ2世が同時に婚姻しその日宮廷では酒宴が開かれていました。めでたい席で酒がかなり入っていたのでしょう。アンリ2世はすっかり気分が良くなりモンゴメリ伯と馬上試合をすることとなりました。この時周囲は危ないからと止めたそうですが、強引に馬上の人となった国王は事故によりアンリ伯の槍で左目を貫かれます。この時の傷がもとでアンリ2世は7月10日没しました。


 アンリ2世の事故死を、当時カトリーヌの宮廷に仕えていたノストラダムスが予言していたというエピソードもありますが予言はどのようにでも解釈されることから歴史学界では黙殺されています。優柔不断な国王とはいえアンリ2世は確かにフランスの安定を保つ大黒柱でした。国王の逝去でカトリックプロテスタントの対立は次第に先鋭化していきます。跡を継いだ息子フランソワ2世はわずか15歳。母カトリーヌ・ド・メディシスは摂政として息子を支えなければなりませんでした。

 彼女の双肩にフランスの命運は掛かっているのです。そして悲劇は大虐殺という最悪の形で具現しました。次回はユグノー戦争の勃発とサン・バルテルミの大虐殺を描きます。