鳳山雑記帳はてなブログ

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なぜフランク族だけが生き残れたか?

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 皆さんは世界史でゲルマン民族の大移動を習われたと思います。4世紀~5世紀東方から襲来したフン族により、ローマ帝国辺境にいたゲルマン諸族が玉突きのように押し出されローマ領内になだれ込み、それが引き金となって東西に分裂したローマ帝国のうち西ローマ帝国が滅亡したという事件です。


 有名どころでは、西ゴート族東ゴート族ヴァンダル族、ランゴバルト族などですが、ほとんど移動した先で一時的には王国を建て繁栄しても結局滅んでしまい、現在では周辺民族に溶け込み民族としては存在していません。


 その中でフランク族だけが生き残り、現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型となっています。もちろん民族としてのフランク族自体は、これらの国民に溶け込み跡形もないのですが、現代につながる国家の祖となったのは彼らの建てたフランク王国だけでした。


 私は、この違いは何かと常々疑問に思っていました。民族としての戦闘力自体は各民族あまり違いがなかったように思えます。むしろローマ軍と戦って勝てる力を持った東西ゴート族のほうが強力だったかもしれません。可能性としては地理的条件ですがどうもはっきりしません。



 フランク族は、もともと現在のベルギーからオランダ辺りの地域に住んでいました。【ラテン語ではFranci(フランキ)。語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味すると言われ、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源ともなった。】(ウィキペディアより)



 カエサルの『ガリア戦記』に登場せず紀元3世紀ころの文献に初めて登場することから、割合新しい勢力かつ古くからの民族の複合体ではなかったかと推測されています。私はこのあたりに生き残りの秘密があったような気がしてなりません。


 さらにフランク族は、本拠地からあまり移動していません。他の民族と違いもともとの居住地から南下してガリア(現フランス)に勢力を広げただけです。これはガリアの地がローマによる開発で豊かになっていたということもありますが、フランク族の故地もフン族による被害を受けておらず一族をあげて移動する必要がなかったという理由もあるでしょう。


 そしていくつかの民族の複合体であったため、征服地の住民とも柔軟に対応することができたとも考えられます。北アフリカに渡ったヴァンダル族アリウス派を信仰しカトリックを弾圧したのとは違い、あっさりとローマカトリックに改宗したことでもそれが分かります。


 本拠地と征服地が隣接してたため、民族の融合がすんなりできたことも大きかったでしょう。


 さらには、勢力を盛り返した東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝の討伐を受けなかったこともあります。大帝にとって辺境のガリアの地は魅力を感じなかったのかもしれません。もし遠征を受けていたら滅亡していた可能性があります。

 当時の東ローマ帝国は、ベリサリウス、ナルセルなどローマ史上でも有数の名将がいましたし、カタクラフトなど軍事面でもおそらく当時世界一の実力を持っていましたから。

 

 こうして見てみると

 (9臾餌欧箸靴討僚斉霎(とくに宗教面で)
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 すぐ南隣りに豊かなガリアがあったため遠くまで移動する必要がなかった
 に楜鮹呂らの拡大発展になったため勢力が根付きやすかった
 ヅ譽蹇璽淞觜颪瞭と欧鮗?韻此外交的に懐柔されるだけだった


 などの理由で、フランク族は生き残れたのかもしれません。


 フランク王国はその後順調に発展し、王権はメロヴィング朝からカロリング朝に移りましたが、現在のフランス・イタリア・ドイツを征服するまでになります。

 カロリング朝2代、カールはヴァチカンに領地を寄進しローマ皇帝として戴冠するまでになるのですから時代の移り変わりを感じます。



 その後フランク王国は、皇位継承の問題でもめ3つに分裂します。冒頭に書いたとおりそれがその後のドイツ・フランス・イタリアに発展していくのです。