
ヨーロッパ中世とは476年の西ローマ帝国滅亡から始まり1453年の東ローマ滅亡までをいいます。
西ローマの滅亡は、フン族来襲に端を発するゲルマン民族大移動に巻き込まれた中で起きた事件でした。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって476年西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され滅びました。
ここまでを単純に見ると蛮族ゲルマン人によって文明世界西ローマ帝国が滅ぼされたような印象があります。ところがローマ帝国史に詳しい方はご存知ですが、歴代ローマ皇帝の中には属州シリア出身の者もいれば属州アフリカ(現在のチュニジア)出身の者もいたのです。ローマ帝国末期はローマ市民権が拡大し周辺の異民族も含めた多民族国家になっていました。
当然ゲルマン族出身の高官もおり、なかでもスティリコ(365年~408年)は滅びゆくローマ帝国を支えた名将でした。
オドアケルもゲルマン出身とはいえ長年ローマに仕えていただけに暴虐の限りを尽くしたわけではありません。ローマ元老院をそのまま残しローマ法を尊重した統治をし、ローマ市民の間に混乱はさほど起こらなかったそうです。
夷を以て夷を制する狡猾な策でしたが、東ゴート族と違い味方といえば自分の軍隊しかいなかったオドアケルは各地で敗退し、493年王国の首都であった北イタリアのラヴェンナでテオドリックに降伏、その直後暗殺されました。
私は、オドアケルは最終的には西ローマの帝位を狙っていたのではないかと考えます。というのは東ローマ帝国に対し内政干渉しようとしたからです。ただその時間がなくイタリア半島だけに押し込められた自分の王国さえ守りぬけなかったために西ローマ帝国を滅ぼした男として歴史上名を残したのでしょう。
彼に落ち度があったとすれば、すくなくともイスパニアとガリアに勢力圏を広げられなかった事でしょう。そこにはすでに彼と同族のゲルマン人たちが大移動の末定着していました。自分の部族を捨てローマで出世したオドアケルにはこれが限界だったのかもしれません。