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中世ヨーロッパⅠ  フランク王国の成立

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 今回からしばらく中世ヨーロッパの旅を続けるわけですが、地中海世界のローマから真の意味でのヨーロッパ世界が誕生したのはメロヴィング朝フランク王国が成立して以降だと思います。
 
 フランク王国はローマの教皇権と密接に結びつき独自のヨーロッパ世界を形成しました。
 
 
 フランク王国を建国したフランク族は、ゲルマン諸族が集まった複合民族だと言われます。他のゲルマン諸族が異端とされたアリウス派の信者だったのに対し、いち早くカトリックを受け入れました。
 
 
 337年ニケーア公会議で異端とされたアリウス派はローマ本国での布教を諦め北方のゲルマン人に重点的に布教します。そのため東西ゴート族を始め主だったゲルマン諸族はアリウス派の信者となりました。
 
 ところが、フランク族ガリア(現フランス)でも辺境の北部にあったためアリウス派が浸透せずアニミズムの段階でした。そのためカトリックをすんなりと受け入れられたという経緯もあったようです。
 
 これにはローマ教会側の働きかけもありました。帝国時代のローマ教会は五大総大司教座(他はコンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムアレクサンドリア)の一つではありましたが、西ローマ帝国の滅亡で蛮族の間に取り残される形となっていました。
 
 最初は東ローマ皇帝に保護を期待していましたが、それが困難になってくると新たな保護者が必要でした。そこで目をつけたのがフランク族です。
 
 一方、メロヴィング朝フランク王国を建国したクローヴィス(466年~511年、在位481年~511年)も他のゲルマン諸族を征服する大義名分を必要としていました。両者の利害が一致したのがフランク族カトリック改宗だったと言えます。
 
 
クローヴィスは、カトリックの保護者として他のゲルマン諸族を異端討伐の名目で征服できるようになったのです。しかも旧西ローマ領に住んでいた大多数のローマ人がカトリック信者だったため他の蛮族の支配よりは受け入れやすかったと思います。
 
 
 クローヴィスは、アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族、チューリンゲン族を異端の名のもとに征服し現在のベルギー、フランスに当たる地方を統一しました。
 
 しかし一代の英傑クローヴィスが511年亡くなると王国はたちまち分裂します。フランク族は王位継承のはっきりとした決まりがなかったため王子たちが分割相続しその都度内紛を繰り返すという状況でした。
 
 
 また経済的にも後進地帯であった地中海沿岸を除くヨーロッパは、流通も発達せず小さくまとまった方が支配しやすいという側面もありました。
 
 
 メロヴィング朝の王権は次第に形骸化し、実際の政治は国王の下の宮宰(マヨル・ドムス)が行うようになっていきました。その中でもメロヴィング朝が分裂した国の一つであるアウストラシア分王国の宮宰カロリング家が台頭してきます。
 
 カロリング家は、カール・マルテル(686年~741年)の時代にはフランク王国全体の宮宰を務めるまでになりました。
 
 
 そして彼の子小ピピンの時代ついにメロヴィング朝を倒し自らのカロリング朝を建国します。次回はカロリング朝の成立とカール大帝(シャルル・マーニュ)の覇業を描きます。