これにはローマ教会側の働きかけもありました。帝国時代のローマ教会は五大総大司教座(他はコンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)の一つではありましたが、西ローマ帝国の滅亡で蛮族の間に取り残される形となっていました。
一方、メロヴィング朝フランク王国を建国したクローヴィス(466年~511年、在位481年~511年)も他のゲルマン諸族を征服する大義名分を必要としていました。両者の利害が一致したのがフランク族のカトリック改宗だったと言えます。
クローヴィスは、カトリックの保護者として他のゲルマン諸族を異端討伐の名目で征服できるようになったのです。しかも旧西ローマ領に住んでいた大多数のローマ人がカトリック信者だったため他の蛮族の支配よりは受け入れやすかったと思います。
クローヴィスは、アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族、チューリンゲン族を異端の名のもとに征服し現在のベルギー、フランスに当たる地方を統一しました。
しかし一代の英傑クローヴィスが511年亡くなると王国はたちまち分裂します。フランク族は王位継承のはっきりとした決まりがなかったため王子たちが分割相続しその都度内紛を繰り返すという状況でした。
また経済的にも後進地帯であった地中海沿岸を除くヨーロッパは、流通も発達せず小さくまとまった方が支配しやすいという側面もありました。
メロヴィング朝の王権は次第に形骸化し、実際の政治は国王の下の宮宰(マヨル・ドムス)が行うようになっていきました。その中でもメロヴィング朝が分裂した国の一つであるアウストラシア分王国の宮宰カロリング家が台頭してきます。