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中世ヨーロッパⅡ  カロリング朝フランク王国   前編

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 ローマ教会がフランク王国と結びつき教皇となっていった事は前記事で書きました。使徒ペテロによって開かれたローマ教会でしたが、最初は当然ローマ皇帝、次いで東ローマ皇帝の監督下にありました。
 
 総大司教座の主座も皇帝のお膝元コンスタンティノープルであり、ローマは次位に甘んじなければならなかったのです。
 
 ところが西ローマ帝国の滅亡はローマ教会の環境を激変させました。イタリア半島には東ゴート、ランゴバルドと異端のアリウス派を信じるゲルマンの蛮族が押し寄せカトリックの総本山ローマ教会を圧迫します。
 
 ローマ教会は、カトリック信者のローマ人を守るためにも外部からの強力な支援者を必要としていたのです。そこで目をつけたのがフランク族メロヴィング朝創始者クローヴィスも征服の大義名分が欲しかったので両者の利害は一致しました。
 
 ローマ教会がいつローマ教皇庁になったかですが、一般には440年に着座したレオ1世の時代に確立されたと言われています。ただそれが決定的になったのは1054年のシスマ(東西教会の大分裂)でした。
 
 ではそれが可能になったのはなぜでしょうか?ビザンツ(東ローマ)帝国に代わる強力な支援者を得たからです。それにはメロヴィング朝ではまだまだ役不足でした。いざと言う時強力な援軍を送れる存在、ヨーロッパ世界におけるスーパーパワー無くしては成しえなかったと思います。
 
 そのスーパーパワーこそメロヴィング朝に取って代わったカロリング朝フランク王国でした。
 
 
 時計の針を少し巻き戻します。ここにカール・マルテル(686年~741年)という人物がいました。最初メロヴィング朝の分王国アウストラシア(ドイツ西部、ベルギー、北フランス、オランダ)、次いでメロヴィング朝全体の宮宰となった人物です。
 
 宮宰という言葉は聞きなれないと思いますが、要するに宰相です。形骸化し権威だけの存在になったメロヴィング朝の王の下で実際の政務を統括する役目でした。日本でいえば鎌倉将軍と執権北条氏の関係に似ていますね。
 
 
 カール・マルテルの時代、メロヴィング朝は未曽有の危機に見舞われます。すなわちイスラム勢力の侵入です。当時北アフリカを席巻しイベリア半島まで支配下に置いたイスラム勢力はピレネー山脈を越えてガリア(現フランス)に侵入しました。
 
 飛ぶ鳥を落とす勢いのイスラム軍はアキテーヌ公を破ってボルドーを略奪するとそのまま東に向かいツールを襲う構えを見せます。事の重大さに驚いた宮宰カール・マルテルは自ら軍勢を率い救援に向かいました。
 
 
 732年、両軍はツールとポワチエ間で激突します。両軍の兵力ですがイスラム軍は6万から40万と諸説ありますが40万というのは当時の補給能力からいって考えにくいので6万前後というのが妥当な数字でしょう。一方フランク軍はこれも諸説あり1万5千から7万5千。私は7万前後だったという説を採用します。
 
 どこまで本気でフランク王国を征服する気持ちがあったか疑問のイスラム軍に対し、敗れたら国が滅亡するフランク軍は必死に戦いました。1週間のにらみ合いの末ぶつかった両軍はイスラム軍の騎兵の突撃に対しフランク軍の重装歩兵が必死に防戦するという展開を繰り広げます。その日の被害は両軍ともに甚大でした。
 
 ところが一夜明けてみるとイスラム軍の陣営はもぬけの殻。余りの被害の大きさに戦闘継続を諦め撤退したのでした。遺棄された死体の中にはウマイヤ朝のイベリア総督アル・ガーフィキの姿もありました。
 
 
 こうしてフランク王国イスラムの征服を免れます。ツールポワチエ間の勝利はカール・マルテルの権威をいやが上にも高めました。あとはメロヴィング朝の王を追って自分が王になるばかりに。そのチャンスは意外に早く訪れます。
 
 737年、国王テウデレク4世が後継者の指名をしないまま亡くなったのです。しかしマルテルは、宮宰のまま王国を支配し続けます。
 
 739年ローマ教皇グレゴリウス3世は北イタリアを支配しローマ教皇を圧迫するランゴバルド族討伐をマルテルに依頼します。しかしツールポワチエ間の戦いにランゴバルドの援軍を得ていたマルテルはこれを断ります。教皇の依頼が実行されるのはマルテルの息子小ピピンの時代でした。
 
 741年マルテルは北フランス、クワルジー・スー・ロワーズで没します。享年55歳。
 
 
 
 カロリング朝の成立は息子小ピピンに委ねられました。