鳳山雑記帳はてなブログ

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八幡神と秦氏の謎

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 先日九州ローカルの旅番組を見ていると、ちょうど宇佐神宮を紹介していて司馬遼太郎の「街道をゆく」の文章の一節を引用していました。

 なにげなく聞いてみますと、八幡神はもともと「やはた」神と呼び八とは「八千代」とか「八雲」のように数が多いことの例え。多くの「はた」氏のための神が源流ではなかったか?と推察していました。


 「はた」氏とはもちろん秦氏のことです。秦氏とは…

秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島百済から百二十県の人を率いて帰化秦氏の基となったというが、加羅伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。】(ウィキペディアより)

 というもので、古代日本において重要な役割を担った渡来系の一族です。一説では機織(はたおり)や畑作(はたさく)も秦氏から出たのではないかとされるくらい産業技術面で大きく貢献し、各地を開発し土木・養蚕・機織など多くの技術を伝えました。


 秦氏新羅系あるいは百済系と言われますが、私が以前から考察している通りユダヤ系のにおいがするんです。といいますのも秦河勝が創建したとされる兵庫県赤穂市の大避神社はもと大闢神社といい、ダイビャクつまりダビデのことだとされるのです。またこの神社の近くには「やすらいの井戸」なるものがあります。「やすらい」=「イスラエル」と読み解く人もいるくらいです。

 あと秦氏系の神社に見られる「三本脚鳥居」は、キリスト教の三位一体の象徴ではないかということから、秦氏景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だったのではないかと推測する論者もいます。


 司馬氏は短編小説「兜率天の巡礼」において秦氏ユダヤ人の関係を読み解いています。余談ですがこのロマンチックな小説は私の中では司馬作品でもベストテンに入っている話ですので一読をお勧めします。


 京都にも大酒(=大避)神社があり、これも昔は秦氏の本拠地太秦にある広隆寺の中にあったそうです。そしてここにも「やすらいの井戸」があるといいます。


 八幡神の話に戻ると、この神は農業神あるいは鍛冶の神とされ祭神も応神天皇を主神として、神功皇后比売神を合わせて八幡神(八幡三神)とされています。全国に一万社とも二万社ともいわれ、これは稲荷社につぐ2位の分布数です。

 これだけみると、八幡社と秦氏との関係を読み解くことはできません。しかし祭神の応神天皇について言わせていただくと、以前記事で書いた通り私の推理では日本古来の王朝であった三輪王朝を滅ぼした九州王朝の祖。そしてもとを正せば朝鮮半島を支配した満州起源の騎馬民族・扶余族による征服王朝であったと見ています。


 扶余族の征服王朝、そして半島系の渡来民族。天孫族と自称した扶余族と秦氏の間に何らかのつながりはなかったのでしょうか?歴史的な事実として景教徒が中国まで来ていることは確実です。ならば日本まで来ていてもおかしくない。一説では秦氏の起源は中央アジアとも言われており、それならばイスラエルの失われた十支族の末裔の可能性も出てくる!このあたりは資料を集めていないので想像するだけですが…。


 今後の研究課題ですが、今のところ秦氏は扶余族そのものではないが協力関係にあったユダヤ系あるいは景教徒であった。扶余族の日本支配に従って渡来し、地方を開発し技術を伝えた。地方開発の過程で自らの神である八幡神を各地に創建した。もともとは別の神であった八幡神を、天孫族への服従の証として祭神を応神天皇を始めとした天孫族ゆかりの神とした。ただし本拠地だけはみずからの信仰を守り八幡宮ではなく大避神社として残した。私はそう考えています。