鳳山雑記帳はてなブログ

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極東アジアの歴史 三韓の支配者

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 最近私は、古代日本の形成に関わりある極東アジアの歴史に興味を持っています。中でも朝鮮半島の歴史は研究しなければいけないと考えているのです。
 
 ところで皆さんは朱蒙という人物をご存知でしょうか?
 
 韓国でドラマにもなった朱蒙は、伝説の高句麗初代国王で東明聖王とも呼ばれます。しかし東明聖王を始祖とする伝説は同族である扶余族建国神話にもあり、朱蒙という人物が実在したとしても別人の可能性が高いといわれています。
 
 扶余族はツングース騎馬民族とされますから、同系諸族共通の建国神話だったのでしょう。一方、東明聖王には三人の子があり、二代王を継いだ瑠璃明王の他に沸流(ふる)、温祚(おんそ)の兄弟があり彼らは王位を継げなかったことから半島南部に逃れ温祚は百済王家の祖となったといわれています。
 
 この事から百済も支配層は扶余族であったという事が想像できます。当初の百済の国号は南扶余だったそうですし。
 
 
 俗に百済新羅加羅馬韓辰韓弁韓の後身だと言われますが、もともと半島南部には馬韓だけしか存在していなかったそうです。
 
 そこへ秦の労役から逃れてきた遺民が大量に流入し、治安上の問題から統制できなくなったため、東の地を割いて与え、そこから弁韓辰韓が生まれたとされます。
 
 
 馬韓の元々の住民は定住民で穀物を植え養蚕を行っていたそうですから平和な農耕民でした。その風俗は倭(日本)に近かったそうですから昔は半島南部にも倭人が住んでいた可能性は高いと思います。
 
 また、秦の遺民流入の話は漢民族が大挙入ってきたというより周辺の雑多な民族が入り込んだという方が実情に近いでしょう。もちろんその中には漢族もいたはずです。
 
 
 馬韓弁韓辰韓というのは一つの国家ではなく多くの小国が割拠していました。地域ごとの大雑把な区分で三つに分かれていただけなのでしょう。
 
 馬韓では、扶余族が侵入し統一国家百済を建国した(らしい)という事は見てきました。では12カ国に分かれていたという辰韓小国家のひとつ斯蘆国(しろこく)が周辺諸国を併合して発展した新羅はどうだったでしょう?
 
 
 これも民族国家というより支配層は異民族だった可能性が高いと見ています。扶余族かどうかは断定できませんが、辰韓は別名秦韓とも呼ばれていたことから考えると漢族あるいはその周辺民族からなる集団だったと思います。
 
 秦という言葉に注目すると漢族ではないでしょう。中国で古代ローマの事を大秦と呼ぶように漢族から見ると西方の異民族を指して秦人と呼んでいたと想像されます。実際、始皇帝の秦も中原諸国から見ると蛮夷の国として蔑みの対象でしたから。
 
 新羅の支配層は扶余族ではないにしても、もしかしたら西方から来た別の騎馬民族だったのかもしれません。
 
 
 
 では残る三韓のひとつ、加羅伽耶)はどうだったでしょう?この地域は結局統一勢力を出せず新羅に吸収されました。
 
 私は扶余族建国神話で半島南部に逃れてきた二人の兄弟のうち、消息の分からなくなっている沸流がこの加羅伽耶)に来たのでは?と見ています。異民族を征服し国を建てた弟の温祚と違い、優しい性格だったとされる沸流は平和共存の道を選択したのかもしれません。
 
 ただしこの沸流あるいはその子孫が日本に侵攻し、日本古来の王朝であった三輪王朝を滅ぼし河内王朝を建てた(ただし三輪王朝の末裔である継体王朝に滅ぼされ日本の国体は守られた)という物騒な説もありますからこのあたりは何とも言えません。
 
 
 
 
 加羅統一国家を形成できなかったために新羅に滅ぼされ、朝鮮半島は扶余系の高句麗百済新羅三国時代に入るのです。