ネットサーフィンをしていて、たまたま見つけた記述に朝鮮人は古代濊(わい)族の子孫だからもし日本民族が太古の昔半島に住んでいたとしても似ても似つかない別民族、同系と考えるのはまったく間違いである、という記述を見つけました。
上図は紀元前1世紀ころの極東アジアの勢力図です。日本は丁度弥生時代。半島の大半は超大国漢(前漢)の版図に組み入れられ伝説の箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)の面影はなく、後に三韓となる民族は半島東南部に押し込められています。
一方、そのさらに東北に位置する粛慎ですが同じツングース系狩猟民族でありながら北海道のオホーツク文化の担い手だったと言われたり古代日本に海上から訪問していたという記録もあるところから前記の四種族とは別系統だったようです。
というのは、高句麗が最初に攻撃したのが同じ濊(わい)系諸族だったらしいのです。扶余を攻撃し王を殺したという記述もあります。
濊貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は、部族乱立し統一勢力には成長できませんでした。
といいますのも、遊牧民族あるいは遊牧国家とは必ずしも同一民族だけで構成されるわけではないんです。実力あるものに従い集団ひいては国家を形成するというのが遊牧民にとっては自然で支配民族が蒙古系でもその族民にはツングース系やイラン系がいても全く不思議でないのです。
この時高句麗は公孫氏政権を後押ししていたふしがあり、246年魏の将軍毌丘倹(かんきゅうけん あるいは ぶきゅうけん)に攻撃され首都丸都を陥落させられました。魏軍が引き揚げた後に丸都は再興されたそうですが、この事件をきっかけにして高句麗は本拠を半島部に徐々に移していったようです。
丸都では時の中華政権と近すぎ、このような国家存亡の危機に陥りやすいというのが理由でした。以後高句麗は本腰を入れて半島経営に乗り出します。
上図をみると、高句麗は他の濊(わい)系諸族を東西に分断する形で発展しているのが分かりますね。そして建国当初の百済の勢力範囲が意外に広大なのも驚かされます。高句麗は楽浪郡を滅ぼし、百済と戦争を繰り広げながら半島を南下しました。
その後670年から676年にかけて、補給線の伸び切った唐の弱点を突くように新羅が半島統一戦争を仕掛け唐の勢力を半島から追い出すことによって統一を果たします。
一方、満州に残った濊(わい)系諸族ですが、粛慎の後裔とされる勿吉(もっきつ)に滅ぼされたと言われています。勿吉(もっきつ)は唐代には靺鞨(まっかつ、拼音:Mòhé)と呼ばれるようになり、北部の黒水靺鞨(のちにここから金や清を建国する女真族が誕生する)と、南部の粟末靺鞨に分裂します。
個人的には、「人尿で手や顔を洗う」という記述や「人前で乳房を平気で晒す」という風俗から勿吉(もっきつ)の血が一番色濃く残っているような気がしますが(爆)。