鳳山雑記帳はてなブログ

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極東アジアの歴史 古代濊(わい)族の興亡

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 ネットサーフィンをしていて、たまたま見つけた記述に朝鮮人は古代濊(わい)族の子孫だからもし日本民族が太古の昔半島に住んでいたとしても似ても似つかない別民族、同系と考えるのはまったく間違いである、という記述を見つけました。
 
 私も、民族的な気質(すぐ火病るとか…)の違いから、それは納得できるんですが、はたして朝鮮民族が本当に濊(わい)族の子孫なのかどうかというところに興味を持ちました。
 
 上図は紀元前1世紀ころの極東アジアの勢力図です。日本は丁度弥生時代。半島の大半は超大国漢(前漢)の版図に組み入れられ伝説の箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)の面影はなく、後に三韓となる民族は半島東南部に押し込められています。
 
 漢の国境から旧満州に分布していた狩猟遊牧(おそらく半農半牧)民族が、濊(わい)です。後に濊貊沃沮高句麗夫余の四種族に分かれたといわれますからこれらはツングース系の同族です。
 
 一方、そのさらに東北に位置する粛慎ですが同じツングース系狩猟民族でありながら北海道のオホーツク文化の担い手だったと言われたり古代日本に海上から訪問していたという記録もあるところから前記の四種族とは別系統だったようです。
 
 
 濊(わい)系諸族のうちでは高句麗と扶余(夫余)が台頭してきました。高句麗は紀元前後に建国し現在の満州の地、吉林省鴨緑江北岸の丸都を本拠(最初は遼寧省卒本だったとされる)に発展します。
 
 一方三韓のひとつ馬韓から発展した百済も支配層は扶余族だったとされますから漢が衰退したことで生じた朝鮮半島の空白地帯で台頭したのが扶余族だったのは間違いないでしょう。
 
 肝心の扶余族本体ですが、実ははっきりと分かりません。私の想像では一部は朝鮮半島東北部に南下し、満州から朝鮮半島東北部に広く分布したと考えられます。
 
 というのは、高句麗が最初に攻撃したのが同じ濊(わい)系諸族だったらしいのです。扶余を攻撃し王を殺したという記述もあります。
 
 紀元32年後漢光武帝が高句驪侯を高句麗王に昇格させたという記述があることから、濊(わい)系諸族のうち王国を建国したのは高句麗と扶余のみだったようです。
 
 濊貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は、部族乱立し統一勢力には成長できませんでした。
 
 高句麗以外の民族は、その後の歴史では忽然と消えます。おそらく高句麗発展の過程で吸収されたか、満州に残った部族は台頭してきた蒙古系の鮮卑柔然などに吸収されたのでしょう。
 
 といいますのも、遊牧民族あるいは遊牧国家とは必ずしも同一民族だけで構成されるわけではないんです。実力あるものに従い集団ひいては国家を形成するというのが遊牧民にとっては自然で支配民族が蒙古系でもその族民にはツングース系やイラン系がいても全く不思議でないのです。
 
 実際、匈奴の後身といわれるフン族でさえ、明らかに雑多な民族が混じり合った集団だったとされます。
 
 
 満州を本拠地にした高句麗がいつ半島に本拠を移したかですが、その最初のきっかけは中国三国時代でした。
 
 高句麗に隣接する遼東半島を中心とした遼東の地には公孫氏の独立政権が興りました。しかし魏の司馬懿の討伐を受け公孫氏政権が滅びると高句麗は魏と直接国境を接するようになります。
 
 この時高句麗は公孫氏政権を後押ししていたふしがあり、246年魏の将軍丘倹(かんきゅうけん あるいは ぶきゅうけん)に攻撃され首都丸都を陥落させられました。魏軍が引き揚げた後に丸都は再興されたそうですが、この事件をきっかけにして高句麗は本拠を半島部に徐々に移していったようです。
 
 丸都では時の中華政権と近すぎ、このような国家存亡の危機に陥りやすいというのが理由でした。以後高句麗は本腰を入れて半島経営に乗り出します。
 
 この一連の事件は、さらっとではありますが三国志演義もかな?)で触れてあるでご存知の方も多いでしょう。
 
 
 その後の半島の歴史はご存知の通り。高句麗と、同じ扶余族が支配層である百済三韓の一つ辰韓から発展した新羅(これが一応朝鮮初の民族国家といわれる)の鼎立時代を迎えます。
 
 
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 上図をみると、高句麗は他の濊(わい)系諸族を東西に分断する形で発展しているのが分かりますね。そして建国当初の百済の勢力範囲が意外に広大なのも驚かされます。高句麗楽浪郡を滅ぼし、百済と戦争を繰り広げながら半島を南下しました。
 
 半島部のその後の歴史は、まず660年新羅と唐の連合軍によって百済が、668年には同じく新羅・唐連合軍によって高句麗が滅ぼされました。
 
 その後670年から676年にかけて、補給線の伸び切った唐の弱点を突くように新羅が半島統一戦争を仕掛け唐の勢力を半島から追い出すことによって統一を果たします。
 
 
 
 一方、満州に残った濊(わい)系諸族ですが、粛慎の後裔とされる勿吉(もっきつ)に滅ぼされたと言われています。勿吉(もっきつ)は唐代には靺鞨(まっかつ、拼音:Mòhé)と呼ばれるようになり、北部の黒水靺鞨(のちにここから金や清を建国する女真族が誕生する)と、南部の粟末靺鞨に分裂します。
 
 この粟末靺鞨が大祚栄に率いられた高句麗の遺民と結び付いて建国したのが渤海(698年~926年)です。
 
 
 極東アジアの歴史、こうして見てみるとなかなか面白いですね。という事で私の結論ですが、朝鮮民族がすべて濊(わい)族の子孫というのは無理があると思います。
 
 全部新羅の子孫というのも同様に無理です。これら諸民族が新羅から高麗、李氏朝鮮と続いて行くうちに混血し形成されていったのが朝鮮民族なのでしょう。
 
 
 個人的には、「人尿で手や顔を洗う」という記述や「人前で乳房を平気で晒す」という風俗から勿吉(もっきつ)の血が一番色濃く残っているような気がしますが(爆)。