鳳山雑記帳はてなブログ

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石山本願寺の謎

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 私が長年疑問に思っている事があります。何十年か前、学研のスーパーミステリーマガジン「ムー」に載っていた記事です。

 真相は確かめるべくもありませんが、織田信長が十年に渡って戦った石山本願寺についてです。一向宗の総本山、石山本願寺が信長に十年もの籠城戦で耐え抜いた理由には地形の要害、信者の結束、雑賀衆に代表される鉄砲の威力があったと従来の歴史では述べられています。

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石山合戦】フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より


石山合戦(いしやまがっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけての、浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い。本願寺門主顕如石山本願寺に篭って戦ったことから石山合戦と言われる。石山戦争ともいう。

広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの11年(10年間)を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。

戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦終結と同時に、各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。

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 歴史愛好家としてはそれが充分すぎる理由だと納得できるんですが、ムーの記事によると石山本願寺には『まがたん師』(漢字は忘れました。こんな名称だったかも自信なし)という秘密結社が協力していたというのです。

 しかも石山の地は、かって石姫山(いわひめやま)と称し、本願寺ができる前は生国魂神社の境内であり、さらにその前は太古の磐座であったというのです。
 かっての大阪の地は上町台地の両側は海(上の地図参照)であり、その突端部に今の大阪城があるのですが、突端部は小山のように隆起し古代からの聖地であったそうなのです。『まがたん師』集団は、その聖地を守るために古代から結成され秘かに守り続けていたとされます。
 本願寺は、この霊力を借りるため石山の地に蓮如の隠居房を造り、天文法華の乱でそれまでの本拠地である京都の山科本願寺を焼き討ちされた後は、ここを総本山としたといいます。

 このあたり記憶があいまいで確信はもてないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。


 石山本願寺の奥深くには、『まがたん師』の守り本尊とも言うべき古代からの血を引く大柄(たしか180cm以上と書いてあったような)の美しい姫が匿われ、『まがたん師』たちはその姫を守るために戦ったそうです。


 信長が本願寺を開城させたあと顕如の退去だけで済ませたのには、この戦いによって真の敵である『まがたん師』を潰滅させることができたからだそうなのです。あるいは話し合いによって本願寺は『まがたん師』を裏切り、彼らを信長に売り渡すことによって生き延びたという解釈もできます。

 織田信長が執拗に本願寺勢力の潰滅を図った裏には、古代からの秘教技術を受け継ぎ信長の天下支配に抵抗する彼らの潰滅を考えていたというのが記事の内容でした。信長は古代から連綿と受け継がれてきた権威、伝統を破壊し新たな秩序を築こうとしていましたから『まがたん師』にとっては相容れる事のない敵だったはずです。


 降伏後、本尊の姫は信長の前に引き出されました。そのあまりの美しさに信長は圧倒されたと言われています。その後はおそらく殺されたのでしょう。生き残った『まがたん師』も残酷な方法で処刑されたはずです。





 ここまで読まれてどうですか?私には真相は判断できかねます。ムーの記事は大筋では間違いないと思いますが何分記憶が薄れてしまっていて細部は違うかもしれません。どなたか、この話のもとネタをご存知の方はいらっしゃいませんか?話としてはたいへん興味深く面白いと思うんですが…。