鳳山雑記帳はてなブログ

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下間(しもつま)氏と七里頼周(しちり よりちか)、本願寺の坊官たち

 本日の記事は非常にマニアックなので日本史や戦国時代に興味のない方はスルーお願いします。

 

 さて何回も話したと思いますが、私の悪い癖は一つの記事を書くとその関連項目も調べたくなる事です。その時は集中しているんですが、熱しやすく冷めやすいためすぐ忘れてしまいます。ですから過去記事を読み返してみると、よくこの時ここまで調べたなと自分で感心するくらいです(苦笑)。

 それはともかく、皆さん戦国時代をテーマとしたゲームをしているとき、本願寺勢力の武将として下間某とか七里頼周とか坊さんの格好をしながら結構能力の高い武将(特に政治力)が出ているのを見た経験があると思います。あの人たちは何者だろうと疑問に思いませんでしたか?一般には僧兵の親玉の類だろうと理解しておられると思います。私も最初はそうでした。

 でも調べてみると、この人たちの出自は立派な武士でした。大和国でいうと興福寺の武力を担当した筒井氏や越智氏のような衆徒にあたります。本願寺のような大寺院の場合は坊官というのがそれに当たります。ただ興福寺の衆徒が主に武力を担当したのに対し坊官は俗世でいうところの政所に当たる統治機関でした。石田三成の親友として有名な大谷吉継も坊官出身だという説があります。

 本願寺においては下間(しもつま)氏が、坊官のトップである別当など要職を独占しました。下間氏はもと下妻氏と言い、面白いエピソードがあります。鎌倉時代初期承久の乱勃発前、摂津源氏源三位頼政の孫にあたる源頼茂という人物がいました。頼茂は正五位下右馬権頭という官位を持ち朝廷の内裏守護の任にありながら鎌倉幕府の信任も厚く在京御家人として朝廷と幕府を仲介する役目も担っていました。

 幕府に反感を抱く後鳥羽上皇にとっては疎まれる存在で、挙兵前無実の罪を着せられ上皇の命を受けた北面の武士たちによって在所のあった昭陽舎を急襲されます。奇襲でしたから応戦の暇もなく自害して果てました。一説では上皇の倒幕計画を察知したため幕府に報告される前に先手を打ったとも言われます。

 頼茂の一族に宗重という人物がいました。この人物も源三位頼政の曾孫にあたります。大叔父頼茂が無実の罪で討たれ宗重もこれに連座し処刑されそうになります。そこにたまたま浄土真宗の開祖親鸞聖人が通りかかりました。親鸞聖人は宗重の冤罪を知っていたかどうか知りませんが、朝廷の役人に処刑の非を説き出家させるという条件で許されます。こうして宗重は親鸞聖人の弟子蓮位坊となりました。

 親鸞聖人は東国伝道に赴き常陸国下妻に一時庵を構えました。同道していた蓮位坊はこれを記念し下妻氏と名乗ったそうです。出家していた者がどうして俗世の姓を名乗るのか疑問ですが、下妻氏は後に下間氏と名を改めます。これが下間氏の始まりだとされます。どこまで真実なのか非常に怪しいですが、蓮如によって本願寺教団が成立すると下間氏もこれに従い坊官として教団の実務を担当することになりました。

 戦国時代一向一揆が起こると、本願寺は指導者として坊官の下間氏を各地に派遣します。朝倉家の記事で出てきた下間頼照、頼俊は戦国の世ですから一向一揆を指導した経験があるのでしょう。並みの武士も顔負けの戦争指導をしたと思われます。ただ一揆衆にとっては本願寺から派遣され頭越しに命令されるのは面白くなかったかもしれません。一向一揆の本場加賀や越前でも最初に蜂起した一揆の指導者たちには煙たがられました。

 本願寺の坊官と言えば他に七里頼周が有名です。頼周は下間氏と違い下級武士青侍の出身でした。本願寺顕如に大抜擢され顕如の命令で加賀一向一揆の指導を命ぜられます。頼周は加州大将として加賀一向一揆を指導したそうですから、エリート層の下間氏とは違い地元の一揆指導者たちとの関係は当初良かったのでしょう。ただ育ちが悪いのか権力を握ると次第に横暴な態度が目立ち門徒の人望を失います。石山本願寺の坊官下間頼廉に加賀門徒から頼周に対する弾劾状が送り付けられるという騒ぎにまで発展し加賀一向一揆は内紛で分裂します。これを見ていた織田信長天正三年(1575年)、越前一向一揆を討つため大軍を派遣しました。

 内部分裂でまとまった抵抗が出来なくなっていた一揆勢は織田軍に簡単に敗北、越前の一揆を指導していた下間頼照は討ち取られます。七里頼周は加賀まで逃げ戻ったそうですが、翌年織田軍に敗北し戦死したとも、味方に裏切られて殺されたとも言われ最期がはっきりしません。

 下間氏にしろ七里頼周にしろ戦国時代の仇花だったのかもしれません。