鳳山雑記帳はてなブログ

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本日は「終戦の日」

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終戦の日(しゅうせんのひ)、終戦記念日(しゅうせんきねんび)は、日本においては一般の認識として専ら、盧溝橋事件以来の対中戦争およびそれに付随しておこった東南アジア各地域での戦争、太平洋戦線の終結を象徴する玉音放送が行なわれた8月15日を指すことが多い。

しかし、天皇が御前会議での聖断によってポツダム宣言の受諾を決定し中立国を通して連合国に通告したのが8月10日、ポツダム宣言受諾が確定し受諾の詔勅が発せられたのは8月14日、軍隊への停戦命令が出されたのは8月16日、日本政府が降伏文書に調印したのは9月2日、ソ連との戦闘終結は9月4日であり、その後も降伏命令の届かなかった部隊・兵士や、邦人保護のための自衛にあたった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。

- フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より -

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏しました。満州動乱からの15年間、戦争一色の狂える時代が終わった…、大多数の日本人はそう思ったかもしれません。

 この太平洋戦争、いや大東亜戦争は日本にとってどんな意味があったのでしょうか?かって満州事変を起こした張本人、石原莞爾陸軍中将は東京裁判酒田出張法廷で、「日本の戦争責任を追及するなら、ペリーを呼んで来い」と主張したと言います。
 まさに至言だと思います。300年の泰平を軍艦と大砲で脅し開国させ19世紀の弱肉強食の時代に放り込んだのはペリーでした。喰うか喰われるかの時代に、現代のような「非武装中立」などという寝言を言っていては、猛獣のような欧米列強に植民地にされていたでしょう。

 日本が植民地化されなかったのは、当時の日本人たちが攘夷という抵抗を見せたためで、確かイギリスの外交官だったと思いますが、「日本は、サムライ達がいる限り植民地化は困難である」と本国に報告しています。

 明治新政府は、喰われる側にならないために富国強兵を推し進めました。当時の日本人達にもそれはじゅうぶん分かっていたため、生活が苦しくても余り不満もなかったそうです。奴隷として生きるよりも、貧しくとも独立した国家国民であったほうがどれだけよいか、人々はよく分かっていました。

 日清、日露戦争は明らかに防衛戦争でした。この両戦役まで侵略戦争などとほざく馬鹿左翼がいますが、歴史を冷静に検証すれば、それがどんなにおかしい議論か明白でしょう。
 だいたい、侵略戦争というのは強いものが弱いものに対して起こす戦争であり、国力で数倍から数十倍もある大国に起こすわけがありません。その意味では太平洋戦争も、英米に対して侵略戦争であるはずがありません。あくまで侵略戦争と言い張るなら、日本がこれらの国より大国だと言っているのに等しいので、左翼の人たちは日本を褒めているんですね。日本をそれだけ褒めてくれてありがとう(嘲笑)。

 ただ、日本にも驕りはありました。ロシアに曲がりなりにも勝ったため自国が神国であるという幻想の信者になってしまったようです。日露戦争明治維新の生き残りの元勲たちが指導しました。彼らは修羅場をくぐってきたため現実主義者でした。戦争の解決は外交にあるということを冷静に判断し、絶妙のタイミングで講和をしたのです。長引けば資源に乏しい日本が負けるという事実を熟知していました。

 しかし、昭和の戦争指導者は日露戦争の勝利に酔い、現実に目を向ける冷静さに欠けていたようです。日中戦争を解決する見込みがないままズルズルと始めたあたり、明治の指導者達が見たら頭を抱えていたでしょう。

 同時に外交能力もありませんでした。英米の狡猾な外交に翻弄され、戦争に突入させられたというのが真相でしょう。それでも国民は独立自尊のために命を賭けました。多くの尊い人命がこの戦争で失われています。

 それを考えると、主義主張に関係なく日本人は靖国神社に参拝すべきではないでしょうか?A級戦犯が合祀されているからけしからん、などという戯言はやめなさい。彼らとて日本に良かれと思って行動したのでしょう。ハルノートをそのまま受け入れれば日本はその時点で亡国ですよ。
 彼らに罪があるとすれば日本を敗戦に導いた事だけでしょう。それは彼らも認めていますよ。

 日本人の美徳は、罪を憎んで人を憎まず、だったでしょう。いつから醜い思想の狂人が世にはばかるようになったのか、怒りを通り越して哀しくなります。

 私は九州の片田舎に住んでいるんで靖国神社には参拝できませんが、尊い犠牲者のために祈り、今を生かされている感謝を捧げたいと思います。