竣工後はアリューシャン列島への攻撃、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などに参加した。1944年12月9日、マニラへの輸送任務から佐世保への帰投中、女島付近で米潜水艦「シーデビル」と「レッドフィッシュ」による雷撃で魚雷2本が艦首および右舷機械室に命中、死者19名、浸水5000トンの被害を受けたものの、片舷航行が可能だったため13ノットの速力でかろうじて佐世保に帰投した。その損傷のため佐世保で修理・繋留されたまま終戦を迎えた。
終戦時、機関部の修理が完全に行われていなかったため外洋航行ができず、引き揚げ任務の特別輸送艦に指定されることなく解体処分された。商船への復帰はならなかったが、太平洋戦争を生き延びた商船改造艦艇の中で最大級の船舶であった。
- フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -
隼鷹といえば、南太平洋海戦、闘将角田覚治中将率いる第2航空戦隊旗艦です。『攻撃を命じる際、角田司令の意を受けて「隼鷹」飛行長が発した「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という命令は、彼の猛将ぶりを示すものとして伝説になっている。』(同、ウィキペディアより)というくらい気合の入った人で、私が大好きな海軍軍人です。
この海戦で、指揮権を南雲司令長官から移譲された角田は隼鷹を駆ってエンタープライズを撃破、ホーネットを撃沈するという快挙をはたします。「見敵必戦」をモットーとし山口多聞とともに空母機動部隊を指揮して欲しかった逸材ですが、最後は基地航空隊司令としてテニアン島で壮烈な戦死を遂げました。
商船改造空母ながら60機近くも搭載できた優秀空母であった隼鷹は戦争終結まで生き残り、戦後解体処分されます。