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晋陽城水攻め 春秋時代の終焉

 中国春秋時代、まだ諸侯は周の天子の権威を認め、周王を頂点に諸侯、卿、大夫、士、庶民という身分制度は厳然として存在していました。しかし戦国時代に入ると下克上の気風がはやり、実力あるものが幅をきかすようになります。戦国時代の始まりはいくつか説がありますが、北方の大国「晋」が韓・魏・趙に分割され、彼らが諸侯として認められたBC403年が有力です。

 これにはドラマがありました。もしかしたら晋のかわりに「知」という国が建っていたかもしれないのです。歴史のターニングポイントとなった晋陽城の戦い、今からご紹介します。
 現在の山西省から河北省西部を占める晋という大国がありました。春秋時代はこの晋と南方の楚のニ大国の相克の歴史といっても良いかもしれません。

 晋は文公という覇者をだし強大になりますが、公室の力は衰え、いつしか六卿(りくけい)と呼ばれる六人の大臣に国政を委ねるようになっていました。韓・魏・趙・范(士)・中行(荀氏の本家)・知(荀氏の分家)の六氏です。中でも知氏は代々英邁な当主が続いた事によって力を蓄え本家である中行氏を凌ぐようになります。知氏の当主を瑤と言いました。知伯瑤とも呼ばれたこの男の時代に知氏は絶頂期を迎えます。あるとき六卿の勢力争いで趙氏と、中行氏・范氏が戦端を開きます。知氏は韓氏・魏氏と連合して趙氏を助け中行氏・范氏を追放します。知伯(荀瑤)は二氏の領地を自分たちで分け取り公室には収めませんでした。怒った出公は斉と魯に救援を頼み四卿を討とうとしますが、逆に破れ追放されます。
 知伯は公子の一人を晋君として擁立します。これが懿公(いこう)です。国政を壟断し始めた知伯は晋国を自分一人の物にしようと画策します。まず韓氏に土地を要求しました。当主韓虎は怒りを押し殺して一万戸を献上します。次に知伯は魏氏にも同じように要求をだします。魏の当主駒も近臣に説得されてしぶしぶ一万戸を差し出します。最後は趙氏でした。当主無恤(むじゅつ)はかねてから知伯と対立していたためにべなく断ります。そして本拠地晋陽に籠城します。

 知伯は他の二氏と語らい、晋陽を攻めます。この日を予想し準備していた趙氏の抵抗は頑強でした。攻めあぐねた知伯は汾水の流れを利用して水攻めにすることを思いつきます。これにはさしもの無恤もこたえました。高い堤防を築かれたため水が逆流して水位はどんどん上昇します。生活の場は二階以上に限られました。食料もいつしか尽き、飢餓地獄が訪れました。自害を考えた無恤を、軍師の張孟談が止めました。「拙者に起死回生の策があります。財宝を持ち韓氏の陣に赴かせて下さりませ。」

 こうして、ひそかに韓氏の陣を訪れた張孟談は「今趙氏を攻めていますが、これが滅べば次は貴方の番ですぞ。」と韓虎を説得します。知伯の横暴にいやいや従っていた韓虎は、一年も頑強に抵抗している趙氏に畏敬の念さえ抱いていたところなので心を動かされます。「今宵は大事な時、どうか魏氏も呼んで頂きたい。」という張孟談の願いを聞き届けます。やってきた魏氏も不安を持っていたところだったので内応を約束します。

 韓氏、魏氏の様子に不審を持った知氏の切れ者知果は、知伯に進言します「二人は叛心を抱いています。二人に大領を与えて懐柔するか、さもなくば殺しなさい。」
 「あの二人にそんな度胸があるものか。」と知伯は一笑にふします。知氏の滅亡を悟った知果はその日のうちに姿をくらまします。

 最も恐ろしい知果がいなくなったと知ったニ卿は早速趙氏に使いを送ります。その夜、ひそかに上陸した趙氏の兵は守備兵を倒し、堤防を決壊させます。水は知氏の陣に逆流していきます。それと同時に韓氏、魏氏の兵が左右から知氏の陣に襲い掛かりました。夜が明けないうちに知伯は討ち取られます。
 こうして生き残った韓・魏・趙の三卿は知氏の広大な領地を三分します。三者が正式に諸侯に認められたのはその50年後でした。

 ある本では、知伯に進言したのは国士予譲だったとも言いますが、ともかく知伯はその野望のために滅びました。彼が謙虚に人の意見に耳を傾ける男であったら、彼が晋を統一し「知」王朝を開いていたかもしれません。韓・魏・趙はそれぞれ戦国の七雄に数えられるほど強大でしたから、もしかしたら中国は「知」によって一つにされたかもしれなかったのです。

 歴史は、しかしそうなりませんでした。徳の薄い強者はいずれ滅ぶ運命だったのです。ただ史記刺客列伝にある通り国士予譲だけが知伯に殉じました。「士は己を知るもののために死す。」という有名な言葉をのこして。