最近、童門冬ニさんの「男の器量」という本を読みました。その中に明智光秀とその一族について書いてあったので紹介します。
光秀といえば、主君織田信長を本能寺で討った逆臣というイメージですが、領国であった丹波、西近江では善政をしき、後々まで領民に慕われたといいます。光秀が織田家に仕官するまでは、実は良く分かっていません。その浪人時代のエピソードだそうですが、浪人仲間と川の辺を歩いていると、上流から木の大黒様が流れてきたそうです。「大黒様は五千人の司と言われている。あれを拾うと五千人の大将になる。」と仲間が言うと、光秀は「俺の夢はもっと大きい。」と笑ったそうです。仲間たちは「よく言うよ。」と大笑いしたそうですが、「この中で誰かが最初に大名になったら、後のものは全部その男の家来になろう。」と誓い合いました。
そして、光秀が大名に取り立てられたとき、約束通り皆家来になったそうです。これが明智家の結束の強さに結びつきました。
光秀が本能寺で信長を討った時、彼らは「あくまでも光秀様に殉じよう。」と決意します。そして無駄な戦いはしないと心に決めました。山崎の合戦で破れ、光秀が土民の手にかかって倒れた時、明智一族は近江坂本城に籠城します。有名な明智光春の「馬上湖水を渡る」のエピソードはこのときのことです。光春らは、できるだけ城兵を逃がし一族だけで自決しようと決めます。累代の家宝を失うのに忍びなく、攻囲の敵将が旧知の者だと分かると(確か堀久太郎だったような)、「後世に伝えてくだされ。」とすべて渡しますが、降伏だけは勧められても頑として受けませんでした。そして一族すべて自害して果てたそうです。
さすがの秀吉も、明智一族の壮絶な最期に感歎したそうです。明智家中の結束と節義の堅さは戦国時代でも異例でした。美しい君臣関係だったのが想像されます。こうしてみると光秀のイメージがかわってきませんか?