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中国古典の魅力(2)史記 趙世家から

 久々になりますが、中国古典の魅力シリーズです。実はこの話、宮城谷昌光さんの「月下の彦士(げんし)」という短編小説の元になった話で出典は史記趙世家です。興味を持った方は一読をお勧めします。「孟家の太陽」という短編小説集にはいっています。
 晋の景公の三年、大夫の屠岸賈(とかんが)が趙氏を滅ぼそうとします。趙氏の先代趙盾が権勢を欲しいままにし間接的にではありましたが、主君霊公を刺殺したことを罪とした事が理由です。趙盾にも同情すべき点があったのですが問題は子の趙朔のことです。趙朔は名門の息子らしく人柄の良いだけがとりえの人物でした。屠岸賈は司宼(しこう、今で言う法務大臣)の位にあり、公室の意向をうけて強大になりすぎた趙氏に罪を着せ滅ぼそうとしたのです。
 趙朔には、程嬰という親友と、公孫杵臼(しょきゅう)という食客がいました。屠岸賈は大臣たちにはかり趙朔を糾弾します。ところが直言の士である司馬(軍の法務を司る)の韓厥(かんけつ)が反対しました。しかし公室の威光をかさに屠岸賈は強行しようとします。
 韓厥は趙朔に早く逃げるよう勧めますが、「あなたが趙氏の祭祀を絶やさぬようにしてくれれば、死するとも恨みには思いますまい。」と断ります。韓厥は病と称して朝廷に出ませんでした。屠岸賈は景公の許しもなく、諸将を率いて趙家に乗り込みました。
 趙朔は家来に「お前たちまで巻き込まれる事はない。はやく脱出しろ。」と言いますが、家来たちは涙を流して趙家に殉ずることを誓いました。病で余命いくばくもない趙朔が息を引き取ったとき屠岸賈の兵が邸内になだれ込みます。家来たちは主君の遺言を守り抵抗せず全員殺されます。
 女子供まで惨殺した屠岸賈のやり方に諸将は反発しますが、屠岸賈はかまわず公室に逃れていた趙朔の妻のところにも乗り込みます。趙朔の妻は、先君成公の姉でした。そして趙朔の忘れ形見趙武を生んだばかりでした。婦人は袴の中に幼児を隠し神に祈りました。「趙の家が滅ぶなら、お前は泣くがよい。もし滅びないのであれば泣くのはおよし。」部屋の中を家捜しした屠岸賈でしたが、ついに探し出せませんでした。
 一方、趙家の変からわざと距離を置いていた程嬰と公孫杵臼ですが、二人で相談し「孤児を育てるのと、ここで死ぬのとどちらがどちらが難しいか。」と話し合います。
 自分はやさしい方をとると、公孫杵臼は趙武に似た幼児を探し出し隠れてしまいます。程嬰は屠岸賈のところに駆け込み、褒美を望んで公孫杵臼の居場所を密告します。討手に囲まれた杵臼は「見下げ果てたやつだな、程嬰というやつは!趙朔殿の親友でありながらその遺児を売るとは!」そういって壮絶な最後を遂げます。
 悲痛な表情を浮かべた程嬰でしたが、韓厥の家に駆け込みます。韓厥は怒りこれを殺そうとしますが、程嬰が幼児を抱いているのを見てすべてを察します。そして涙をながして趙氏の遺児を守るよう約束しました。
 15年たって景公は病気になり、占わせると「大業の後を遂げざるもの、祟りをなす。」とでました。相談をうけた韓厥は「大業を立てた家で、祭祀の絶えたのは趙氏です。わが君にはなにとぞ思慮をめぐらされますように。」と答えます。
 「趙氏の子孫はまだ残っているのか?」と尋ねると韓厥はありのままに述べました。こうして趙氏は再興され、屠岸賈は諸将によって滅ぼされました。
 趙武が成人し、諸将へあいさつ回りをし家に帰ってくると、死装束をした程嬰が迎えます。
 「以前、趙家の変で御家臣みな討ち死にしました。私とて討ち死にできぬことはありませんでしたが、なんとしても趙氏の後嗣を立てたく思ったのでございます。今、趙武様は成人され望みも叶いました。この上は泉下において宣孟様(趙朔)と公孫杵臼にこのことを申し述べたく存じまする。」
 趙武はそれを聞くと涙を流して「これからそなたの大恩に報いようとしたのに、そなたは私を見捨てて死ぬというのか?」
 程嬰はやさしく「それはできません。私がいかなければ公孫杵臼は事が破れたと思うでしょう。」と言いそのまま自殺しました。
 趙武は号泣し、三年の喪に服しました。そして程嬰を祭り代々これを絶やさぬようにしました。

 私は、この話を最初に読んだ時泣きました。このように史記にはすばらしい話が満載です。司馬遷という歴史家の偉大さはこれで分かると思います。作家司馬遼太郎が、司馬遷にはるかに及ばないと、ペンネームをつけたこともうなずけます。汲めども尽きぬ魅力、それが史記です。