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タンネンベルクの大殲滅戦

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※ この記事は2006年3月26日にヤフーブログで書いた記事をリニューアルしたものです。

 

 歴史上、ポーランドに位置するタンネンベルクでは2度大きな戦いが起きています。一度は1410年、ドイツ騎士団ポーランドリトアニア連合軍との間で戦われドイツ騎士団は惨憺たる大敗北を喫しました。二度目は第1次大戦中です。それが今回紹介する戦いです。

 

 タンネンベルク会戦とは第1次大戦中、ドイツ領東プロイセンにおいて行われたドイツ第8軍によるロシア軍大殲滅戦の事。
 皆さんは「シュリーフェンプラン」という作戦計画を聞いたことがありますか?鉄血宰相ビスマルク参謀総長モルトケなき後、ドイツ軍参謀総長に就任したシュリーフェンの立案した作戦計画です。


 ビスマルクは、外交にによって常に敵を孤立させ戦争を優位に持っていきました。しかし、彼の引退後、両面作戦を余儀なくされたドイツ参謀本部が必死に立案したものです。


① 初期動員の遅いロシアに対しては全兵力の8分の1をもって持久する。
② その間に、残りの8分の7をもって西部戦線に投入。防備の固いフランス国境を軸に、ベルギーからアミアン、パリ後方を通ってスイス国境におおきく右翼を旋回させて片翼包囲を完成させ、その中に入ったフランス軍を包囲殲滅する。作戦終了予定は6週間。
西部戦線でのフランス降伏を受けて、兵力を東部戦線に移動、ロシア軍を叩く。
という計画でした。


 大胆な作戦ですが、大きな問題がいくつもあります。まず、作戦を成功させるには中立国ベルギーを侵犯しなければならないこと。次に、英仏海峡を横目に移動するため、その脆弱な横腹を英軍に衝かれる恐れがあること。第三にロシア軍がそう都合よくお付き合いしてくれるか、ということです。


 そのために、参謀総長に新たに就任した小モルトケは不安を感じ一部の兵力を東部戦線にまわします。後の歴史家は、小モルトケが兵力を東部戦線にまわしたからパリを取れなかったと批判しますが、西部戦線における膨大な兵站維持も難しくもともと無理な作戦計画だったのです。


 さて、本稿の主題であるタンネンベルク会戦です。1914年8月26日から8月30日まで行われた会戦でドイツ第8軍はおよそ倍の兵力のロシア軍を包囲殲滅することに成功します。これで、東部戦線は安定しドイツは西部戦線に全勢力を注げるようになりました。
 簡単に経過をみていきましょう。


 1914年8月17日、ロシア第1軍レンネンカンプ将軍が独露国境を越えます。東プロイセン南方から迫るサムソノフ将軍の第2軍と共同してドイツ第8軍を包囲する構えです。
 当時、第8軍司令官はプリトウィッツ将軍。緒戦の敗退に恐れダンチヒまで撤退する事を参謀本部に申し出ます。参謀総長モルトケは激怒して彼を更迭。退役していたヒンデンブルグに白羽の矢をたてました。補佐をする参謀長にドイツ陸軍の至宝ルーデンドルフ中将をすえ、ここに歴史上名高いHLコンビが誕生します。
 一方、第8軍でも作戦主任のホフマン大佐が、プリトウィッツ敗退後を想定し作戦計画を作り上げていました。着任したHLコンビはすぐさまホフマン大佐の作戦案を了承し、ここに名高いタンネンベルク会戦がはじまりました。


 ホフマン大佐の案はこうでした。東から来るレンネンカンプのロシア第1軍には最小限の押さえを残し、南方から突き上げてくるサムソノフのロシア第2軍を懐深くまで誘い込んで包囲殲滅、内線の利を生かし、東プロイセンに張り巡らされた鉄道網を使用して部隊をすばやく移動、ロシア第1軍を叩くというものです。


 第1軍と第2軍の間にはマズール湖沼群が広がっており両者の連絡が困難であるとの読みでした。
 ここで、問題のある人物が登場します。第8軍隷下第1軍団のフランソワ将軍です。もともと独断専行のきらいがあり、前軍司令官プリトウィッツを馬鹿にし命令を無視していました。ヒンデンブルグの命令にも素直に従わなかったほどです。ただ、彼自身と第1軍団の兵は東プロイセン出身で郷土防衛に燃えていました。右翼のフランソワ第1軍団が独断で突出したため、怪我の功名でサムソノフ軍を自然に包囲する形になります。敵左翼後方から攻め寄せる態勢になったフランソワ軍団はサムソノフ軍に猛然と襲い掛かりました。左翼の第8軍第17軍団マッケンゼン将軍も苦戦しながらも包囲に参加します。


 サムソノフ軍が危機に陥っているときレンネンカンプ軍は何をしていたのでしょう。実は緒戦でドイツ軍を破ったため、敵が敗走中であると誤認し、敗残兵が逃げ込んだと予測されるケーニヒスベルクへ向け行軍中でした。
 この事実は、平文でロシア軍が通信していたためドイツ軍に筒抜けになります。レンネンカンプ軍の救援はないとふんだ第8軍の賭けでした。
 

 ようやくレンネンカンプが僚軍の危機を認識したのは8月28日午後です。しかし、すでに大勢は決していました。サムソノフ軍は大きな損害を出して国境まで後退。レンネンカンプ軍正面には鉄道で移動を完了したドイツ第8軍が待ち構えていたのです。8月30日、形勢不利を悟ったレンネンカンプはついに撤退命令をだします。大敗したサムソノフは自決しました。41万6千人を数えたロシア軍の損害は死傷者7万8千人。捕虜も9万2千人を数えます。一方15万のドイツ第8軍は死傷者1万4千人弱で済みました。


 少数の兵力で、倍の敵を打ち破ったヒンデンブルグルーデンドルフは国民的英雄になります。
 後にホフマン大佐が語ったエピソードですが、レンネンカンプとサムソノフは昔から仲が悪く、日露戦争のとき危機に陥ったレンネンカンプの救援要請をサムソノフが拒否し、奉天会戦のあと、奉天駅頭で殴り合いの喧嘩をしていたとの事。観戦武官としてその場にいたホフマンがそれを目撃していたそうです。眉唾ものの話ですが、面白いので載せました。


 ロシアはこの敗戦がきっかけで国境防衛線が崩壊、ドイツ軍に自国奥深くまで攻め込まれます。そして連合国から脱落して単独講和を結びました。これがロシア革命へと繋がっていくのです。