鳳山雑記帳はてなブログ

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ンジンガ女王は民族の英雄かそれとも悪女か?

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 偶然ネットを見て最近知っただけで詳しい知識はありません。内容も浅くwiki程度ですので間違いや勘違いもあると思います。その際はコメントでご指摘いただければ修正いたします。

 

 ナポレオンやカエサルアレクサンドロス大王ハンニバルなど有名どころは書き尽くし少々ネタ切れになってきた世界史書庫。自然、一般に知られていないマイナーな人物や事件に焦点を当てざるを得なくなっている今日この頃ですが(苦笑)、歴史に関しては一般の方よりは知識があると思っていた私ですらついこないだ知った人物です。それも本ではなくネットで!

 

 アフリカ大陸南西部、コンゴナミビアに挟まれた大西洋沿いにアンゴラという国があります。面積124万6千平方キロメートルで世界22位。人口2400万人。懐かしい光栄の大航海時代というゲームを遊んだ方ならルアンダという港湾都市(人口450万でアンゴラの首都)のある国といえばピンとくるかもしれません。ゲーム上で現在のナイジェリアにあるサンジョルジュからルアンダまで遠く、風向き次第では水と食料が底を尽き冷や汗をかいたのは懐かしい思い出です。

 

 前置きが非常に長くなったので本題に戻ると、16世紀から17世紀にかけてこの地にはンドンゴ王国がありました。キンブンド語を話したと言われますから、現在アンゴラで25%を占める主要民族の一つキンブンド人が支配民族だったのでしょう。ンドンゴは最初コンゴ王国の属国でした。当時西洋諸国によるアフリカ進出、植民地化が本格化しており、コンゴアンゴラにもポルトガル人が来ていました。1518年ンドンゴはコンゴ王国からの独立をポルトガルから間接的に認めてもらうべく使節を送ります。ポルトガルもこの地に楔を打ち込むことが得策と考え、独立を承認してンドンゴとの間に奴隷貿易契約を結びました。

 

 コンゴ王国としてはたまったものではなく1556年属国ンドンゴを懲らしめるため戦争を仕掛けます。ポルトガルは現地の民族王朝が弱体化するのは好都合だったのでンドンゴを秘かに支援し独立を勝ち取らせました。そして独立して日の浅いンドンゴ王国に介入し着々と植民地化を進めます。おそらくアフリカ各地で同様の事件は起こっていたと思います。ただンドンゴが他と違っていたのは侵略者ポルトガルに対し1590年戦争を仕掛けたことです。槍や弓くらいしか武器のないンドンゴ軍がマスケット銃武装するポルトガル軍にまともにぶつかっても勝ち目はありません。ンドンゴは隣国マタンバ王国と同盟し、数の優位を生かしてゲリラ戦で対抗しました。これにはさしものポルトガル軍も苦戦します。局地戦でポルトガル軍が敗北することも多々あったそうです。戦争は泥沼化します。1623年一応和平が成りますが、ポルトガルは尊重するつもりは毛頭なく一時凌ぎに過ぎませんでした。

 

 ポルトガルの狡猾な態度を見たンドンゴ側は怒ります。ンドンゴ王国第7代ンゴラ(国王)ムバンディは弱腰でポルトガル王の臣下となって毎年奴隷百人を捧げる道を選びました。ところが彼の妹ンジンガ・ムバンデは強硬派でこれが気に入りませんでした。兄ムバンディはその後まもなく死去します。ンジンガは最初兄の子(名前は不明)が即位するとこれを補佐する摂政となりますが、まもなく幼王を殺害、自分が女王となりました。

 

 当時ンドンゴ王国の首都はアンゴラ北部ンバンザ・コンゴにあったそうですがンジンガ女王はポルトガルの手が届きにくい内陸カヴァンガに遷都します。この地はンドンゴ王国発祥の地でした。隣接するマタンバ王国を併合すると再び対ポルトガル戦争に立ち上がります。かつて兄王ムバンディがポルトガル戦争に立ち上がった時無謀であると反対したのは彼女でした。激怒したムバンディはンジンガの一人息子を殺し、彼女にも焼けた鉄棒を彼女の性器に突っ込み二度と子供の産めない体にするなどひどい仕打ちをします。結局彼女の予想通り敗北を重ねポルトガルに屈服しようとする兄にこれまでの恨みを爆発させたンジンガが殺したとも言われます。

 

 ンジンガは現実主義者でした。ポルトガル語も理解していたと言われます。単独でポルトガルに抗しえないと悟っていたンジンガは、ポルトガルのライバルだったオランダに接近し援助を勝ち取るなど彼女が生きている間、ポルトガルは植民地化できませんでした。彼女の生没年は不明(1663年死去説も)ですが、ポルトガルがこの地を併合したのは1671年です。

 

 

 ここまで書くとンジンガ女王は民族の英雄に見えます。ところが悪い話も残っており、食人嗜好を持つサディストの一面もあったと言われています。ある時視察に訪れた村で一人の村人が粗相をしたことに激怒したンジンガは村人600人を石臼で磨り潰して殺し、人肉は食事に、血は若返りの薬として自ら飲んだとされます。彼女の好物は幼い子供だったと言われ、柔らかい肉が美味いと嘯いていたそうです。

 

 またある時は、罪人たちを集め殺し合いをさせ勝った者を恩赦すると云いながら、その勝者を鎖につなぎ死ぬまで鞭打ったと言われます。夜の相手を賭けて若者たちに殺し合いをさせ、勝者と一夜を共にするも次の日にはその男を殺してしまうという暴虐ぶりでした。ここで読者の皆さんは矛盾点に気付かれたと思います。ンジンガ女王は兄に焼けた鉄棒で性器を壊され性行為ができなかったはず。語られるすべてが事実ではなく、敵であるポルトガル側がンジンガ女王を貶めるために流した悪意ある噂だった可能性もあります。

 

 こういう悪い面もありますが、私は侵略者ポルトガルに立ち向かったンジンガ女王の功績は認めます。その意味で民族の英雄であることは間違いありません。