世界史では、「えっ?昔はそんな大国だったの?」と驚くような国がいくつかあります。一時東欧の覇者だったポーランド・リトアニア合同、北海沿岸のノルウェー、スウェーデン南部、ブリテン島の主要部まで支配したデンマーク北海帝国、有名どころだとポルトガル海上帝国、オランダ海上帝国、そしてアンコール・ワットで有名なクメール王国もその一つでした。
クメール人はカンボジアの90%を占める主要民族です。オーストロアジア語族のモン・クメール語派に属し後に支那大陸南部から移動してきたタイ族、越族よりも古くから東南アジア地域に住んでいました。古代の東南アジアは、海のシルクロードの一角としてインドと支那大陸との中継貿易で栄え、東南アジア原産の犀の角、象牙、各種香木、麝香などを輸出します。
東南アジア地域に早くからヒンズー教が伝わったのはそのためです。交易は物と共に人も移動します。インドにアラビア商人やギリシャ商人が来たように東南アジアにもインド人、支那人が来て港を中心に定住しました。貿易をするためには通訳が必要で、そのための人員が最初だったと思いますが、人が増えると、住民は宗教にも関心を抱くようになりインドからバラモンたちが多くきたそうです。ですから東南アジアに最初に広まった宗教はヒンズー教でした。後に5世紀頃から上座部仏教(南伝仏教)が伝播し、ビルマやタイ、カンボジアでは国教となるかそれに近い存在になりました。逆に島嶼部はアラビア半島からインドを経て海路イスラム教が伝わりマレーシア、インドネシアなど多くの信者を獲得します。
東南アジアの交易国家といえばベトナム中部海岸地帯の占城(チャンパ)、メコンデルタ地域の扶南(プナム)などが有名です。占城も扶南も東南アジアの島嶼部に多いオーストロネシア語族に属しています。クメール人はメコン河中流域が発祥の地だと言われます。当初クメール人は扶南の属国でした。
その後ジャワ島に興ったシャイレンドラ朝が伸張するとこれにも属したそうです。このあたり、ちょっと複雑なんですが550年ごろ扶南の属国だったクメールは、独立戦争を起こします。支那の史書ではクメール人の王国を真臘(しんろう)と呼びました。628年真臘はイーシャナヴァルマン王の時代、ついに扶南を滅ぼしこの地を併合します。ところがより強力なシャイレンドラ朝に屈服したというわけです。802年ころの出来事でした。
シャイレンドラ朝が衰えると、9世紀初頭再びクメール人たちは立ち上がります。クメール王国は、ベトナム中部の占城、南下してきたタイ族と戦い領土を拡大しました。12世紀ごろがクメール王国の最盛期だと言われますが、カンボジアはもとよりラオス、メコンデルタを中心とするベトナム南部、北部を除くタイの大部分、マレー半島の北半分という広大な領土を誇ります。
まさに最盛期ともいうべき12世紀後半、スーリヤヴァルマン2世によって建立されたのが世界遺産アンコール・ワットです。アンコールとはサンスクリット語で王都、ワットはクメール語で寺院を意味します。30年という歳月と莫大な費用、人員を用いて造られた壮大な寺院はまさにクメール王国の栄光を象徴する存在でした。後年、この地を訪れた日本人(落書きした森本右近太夫【儀太夫の息子】が有名)たちは、アンコールワットを見て仏典に書かれている祇園精舎だと信じて疑わなかったくらいでした。
そんなクメール王国栄光の時代も長くは続きませんでした。1283年タイにスコータイ朝が成立。同年フビライ汗のモンゴル軍侵入、1225年ベトナムでも陳朝が興りました。ベトナム人とタイ人は、後継者争いと外患で衰えたクメール王国を標的にします。東西から挟み撃ちにされ領土を次々と蚕食されました。そしてついにスコータイ朝を滅ぼしタイの支配者になったアユタヤ王朝によって1431年首都アンコール・トムを落とされ滅亡します。
以後もカンボジア人の苦難は続き、ベトナムとタイの侵略で領土を奪われ現在の国境線まで縮小しました。一時はベトナム、タイの両方を宗主国とするほど惨めな状態にも陥ります。21世紀現在クメール人は本国に1280万人いる他、タイに140万人、ベトナムには170万人もいます。これはかつてその地がクメール王国であった名残りです。当然、タイやベトナムによる民族浄化、迫害はあったはずで人口がここまで激減したのです。止めはポル・ポトによる自国民虐殺200万人!(400万人以上という説も?)
アンコール・ワットを訪れる機会があったら、栄光のクメール王国に思いを馳せたいですね。