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砂漠の女王ゼノビア

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 シリア東部、砂漠の中にあるオアシスはシルクロードの中継地点として栄えました。BC18世紀以来の歴史を持つこの町は、BC3世紀頃には「ナツメヤシの町」を意味する「パルミラ」と呼ばれるようになります。

 ローマとペルシアの勢力圏の中間に位置するパルミラは、中継貿易による交易の富によって莫大な財力を蓄えます。一応、ローマの属州シリアの支配下に置かれていましたが自治が許されていました。
 この都市が脚光を浴びるのは260年の事件がきっかけでした。ローマ軍がササン朝ペルシアに遠征し大敗します。皇帝ウァレリアヌスが捕虜となるという大事件が起き、勢いにのったペルシア軍は地中海沿岸の大都市アンティオキアまで達しました。

 ここで立ち上がったのがパルミラの領主オダエナトゥスでした。彼はパルミラ軍を率い二度に渡ってペルシア軍を撃破、シリアの地から叩きだすことに成功します。しかもメソポタミアに進軍しペルシアの首都クテシフォンを落とすというオマケつきです。
 この比類なき大功にローマは「東方におけるローマ軍司令官」の称号を与えました。時は軍人皇帝時代、オダエナトゥスがローマ市民だったかどうか不明ですが、もし市民だったらシリアのローマ軍団に推戴されローマ皇帝になることも夢ではありませんでした。しかし彼は267年、突如暗殺されます。
 後を継いだのは、彼の若き妻、ゼノビアでした。 

 アラビアの遊牧部族の首長の娘で、母はギリシア人だったと伝えられています。非常な美人で、肌は浅黒く目は黒く輝き歯は真珠のように光っていたそうです。七ヶ国語を操り博識で乗馬も巧み、自ら戦場に赴いて指揮をとれる勇気まで持ち合わせた女傑でした。クレオパトラの再来と自ら思い定め、野心あふれる女性だったそうです。

 当時ローマは混乱の真っ最中でした。ゲルマン人やゴート人の反乱に悩まされ東方にかまっている余裕がありませんでした。ゼノビアはそれに乗じて自立を決意します。7万の兵を自ら率い、ローマの重要な属州であったエジプトを占領します。エジプトはローマの穀倉と言われ、その莫大な収穫物にローマ経済は頼っていました。公然たるローマに対する反逆です。その後パルミラ軍はまたたく間にバビロニアから小アジアまで掌握、ここに一代で興した女王の国としては最大のパルミラ王国が出現しました。

 このローマの危機に登場したのは軍人皇帝アウレリアヌスでした。歴代軍人皇帝で最高の名将とうたわれたアウレリアヌスは、統治が困難になっていたダキアをゴート人に割譲するなど周囲を固めると自ら軍を率い遠征します。兵力は不明ですがおそらく10万ほど、別働隊としてローマ艦隊をエジプトに派遣、いち早く穀倉エジプトを回復しました。
 両軍はアンティオキア郊外で激突します。パルミラ軍の主力である重装騎兵は、逃げるローマの軽装騎兵を深追いしすぎ疲労したところを待ち伏せされ壊滅しました。これはアウレリアヌスの罠でした。主力を失ったパルミア軍は大敗します。エメサでも再び敗れ、舞台はパルミラ攻防戦に移りました。

 激しく抵抗したパルミラ軍でしたが、ローマ軍の猛攻のまえに陥落、都市は略奪を受けました。ペルシアに逃亡を図ったゼノビアでしたが、息子で共同統治者であったワーバラトとともに捕らえられ、息子は処刑、自身はローマへ連行されます。ゼノビア凱旋式の目玉として黄金の鎖で繋がれ市中を引き回されました。彼女のその後は不明です。殺されたとも、郊外で隠棲生活をおくったとも伝えられます。

 アウレリアヌスも、その後ペルシア遠征途中、部下に暗殺されました。ローマ中興の祖といわれる彼が長生きしていたらその後のローマ史も変わっていただけに残念です。
 パルミラはその後も何百年か栄えますが、シルクロードのコースが変わったために衰退、今は廃墟となっています。しかしその遺跡は当時の繁栄振りが偲ばれる壮大なものだそうです。

 砂漠の女王ゼノビア、歴史の中の一瞬の光芒でした。