鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

夢はかき立てられますが現実には…?

 
 
 後漢、シリア、シルクロードというキーワードがでれば、少しでもこの時代の歴史に興味がある人は西域都護班超が大秦国(ローマ帝国)へ送った甘英の使節の一員だったのでは?と考えます。
 
 そういう可能性もゼロではないと思いますが、そもそも外交使節に女性を連れて行ったか冷静に考えるとちょっと考えにくいのではと思いました。
 
 それよりも外交施設ではなく、個人的な商売でシリアまで行った漢民族隊商の一行にいた女性だった可能性が高いです。それも後漢の本土ではなく西域まで進出していた漢人だったのでしょう。
 
 最悪のケースでは、西域で戦に巻き込まれ捕虜になった漢人の女性が奴隷として売られはるばるシリアまで来たのかもしれません。意外とこれが一番現実的です。
 
 どちらにしろ研究が進んで真相解明されればいいですね。
 
 
 
 
追伸: 
 過去記事で班超がトハリスタン(大夏、現在のアフガン北部からアムダリア・シルダリア河間地方の南、ウズベキスタンあたり)から西北インドまで拡大したクシャン朝と対立していた事を書きましたが、だとすると甘英一行はどのルートを通ってパルティアからシリアまで行ったのかが気になりました。
 
 クシャン朝が敵対する後漢の外交使節を通すはずないし、もしかしたらシルクロードを大きく外れて草原の道を通ったのかもしれませんね。
 
 
 
さらに追伸:
 2世紀ごろだったら、パルミュラはもろローマ帝国領のはずですよね。属州シリアの東方に位置する重要な交易都市です。という事はなおさら甘英の使節のはずありません。パルミュラまで来れたらそのままローマに行けます。現実は交易の利を奪われる事を恐れたパルティアが妨害して甘英一行はローマに行けなかったんですから。
 
 ちなみにパルミュラはティベリウス皇帝(在位14年~37年)以来ローマ領です。129年にはハドリアヌス皇帝がパルミュラに巡幸した記録があります。甘英がシリアまで来たのは紀元100年前後。
 
 う~ん、甘英使節説はますます厳しくなったな。