そういう可能性もゼロではないと思いますが、そもそも外交使節に女性を連れて行ったか冷静に考えるとちょっと考えにくいのではと思いました。
最悪のケースでは、西域で戦に巻き込まれ捕虜になった漢人の女性が奴隷として売られはるばるシリアまで来たのかもしれません。意外とこれが一番現実的です。
どちらにしろ研究が進んで真相解明されればいいですね。
追伸:
過去記事で班超がトハリスタン(大夏、現在のアフガン北部からアムダリア・シルダリア河間地方の南、ウズベキスタンあたり)から西北インドまで拡大したクシャン朝と対立していた事を書きましたが、だとすると甘英一行はどのルートを通ってパルティアからシリアまで行ったのかが気になりました。
さらに追伸:
2世紀ごろだったら、パルミュラはもろローマ帝国領のはずですよね。属州シリアの東方に位置する重要な交易都市です。という事はなおさら甘英の使節のはずありません。パルミュラまで来れたらそのままローマに行けます。現実は交易の利を奪われる事を恐れたパルティアが妨害して甘英一行はローマに行けなかったんですから。
う~ん、甘英使節説はますます厳しくなったな。