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ローマ帝国建国史12   フィリッピの戦い

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 フィリッピ(ギリシャ語でピリッポイ)はギリシャ北東部、エーゲ海北岸にあります。ファルサロスにしてもフィリッピにしても、そして次回書く予定のアクティウムにしてもローマと東方勢力の戦闘がギリシャを舞台に行われる理由を考えてみました。

 まず、ローマ側(イタリア半島側)からすれば、ギリシャイタリア半島は狭いアドリア海を隔てるだけで指呼の間にあり、イタリア上陸を防ぐためにはギリシャの地で迎え撃つしかなかったという事です。もしイタリア半島を戦場に選べば、制海権を敵に渡した事と同義になりかなり不利になります。一方、東方勢力側としたら、小アジアアナトリア半島)やシリアに引っ込んで迎え撃つ事は、これも制海権を敵に渡した事となります。

 地中海の戦闘は制海権が死命を制するので、戦力バランスの上からもギリシャが戦場になるのは必然でした。もう一つの理由として、ローマ軍の主力重装歩兵と戦うには伝統の重装歩兵密集陣(ファランクス)の歴史があるギリシャの兵士で対抗するしかなかったという側面もあるでしょう。小アジアやオリエントの兵は、文明社会の住民だけに弱兵で有名でした。

 カエサル暗殺後、世論の糾弾を受けローマを脱出していたブルートゥスとカッシウスたちはどう動いたでしょうか。元老院は、カエサルの旧部下たちに対抗するためブルートゥスら共和派を頼みの綱にしていました。ギリシャ小アジア、シリアの属州を委ねたのも彼らに期待したからです。ところが、ローマはオクタヴィアヌスアントニウスレピドゥスらの兵に制圧され、多くの共和派元老院議員が粛清されます。三者は第2回三頭政治を開始し、ブルートゥスらをローマの公敵であると宣言しました。

 ブルートゥスはギリシャ小アジア、シリアで募兵し17個軍団約10万の兵力を集めます。これはブルートゥスの人望というより反カエサルの勢力が参加したからでした。地中海沿岸各地に長年にわたって勢力を扶植したポンペイウス派の残党がこれだけ多かったという事です。

 紀元前42年、レピドゥスにローマの留守を任せ、オクタヴィアヌスアントニウスはそれぞれの軍団を率いアドリア海を渡ります。両者の兵力はあわせて19個軍団、これも10万を超える大軍でした。ブルートゥスらの軍は、数こそ互角なものの寄せ集めで兵士の信頼は低かったそうです。そこでブルートゥスは莫大な恩賞で釣るしかありませんでした。もともと根っからのローマ人ですらない彼らに共和政の大義を説いても無駄だったでしょう。

 紀元前42年10月3日両軍はエーゲ海北岸やや内陸寄りのフリッピで対峙しました。アントニウスがカッシウスの軍に当たり、オクタヴィアヌスはブルートゥスを担当する事に決まります。緒戦で、ブルートゥス軍の奇襲を受けたオクタヴィアヌス軍は支えきれず敗走しました。どうもオクタヴィアヌスという人は、政治外交の才はあっても戦争は下手だった印象があります。その欠点が分かっていたからこそ、大伯父カエサルはアグリッパを側近に付けたのでしょうが、アグリッパも経験が浅く混乱する部隊の統制に手間取りました。

 一方、戦慣れしているアントニウスは戦の素人カッシウスを簡単に撃ち破ります。この結果、ようやくオクタヴィアヌス軍は混乱状態から立ち直りました。10月23日、両軍は最後の決戦を開始します。この戦いも主役はアントニウスで、元老院派の軍は自軍の隙をついてくるアントニウス軍の突撃を支えきれず敗走しました。

 カッシウスは戦場の混乱の中で討死し、ブルートゥスは敗兵をまとめ近くの丘に立て籠もりますが敵の包囲が厳しくなってきたため自害します。ブルートゥスの死によって元老院共和派の勢力は完全に滅亡しました。以後元老院の政治的力はほとんど失われます。

 戦後、オクタヴィアヌスは戦後処理のためにローマに帰還、アントニウスは治安維持をするため現地に留まりました。自分たちに敵対した元老院共和派を倒したことで、三者は勢力圏を取り決めます。今回の戦争で一番功績のあったアントニウスギリシャ小アジア、シリア、エジプトというローマの東すべてを貰いました。オクタヴィアヌスガリアとヒスパニアを、レピドゥスはアフリカを取ります。レピドゥスが一番損しているようですが、当時のアフリカ(チュニジアが中心)はカルタゴ以来の穀物生産基地で豊かな土地でした。

 三者の勢力を人口経済力から推定すると、全体を100としてアントニウスがだいたい半分の50くらい。オクタヴィアヌスは35、レピドゥスが15くらいでしょうか。協定が成立すると、アントニウスは早速エジプトに向かいます。自分の勢力を盤石なものにするためにエジプトを抑えなければいけなかったからです。

 紀元前36年、セクストゥス・ポンペイウスの反乱が起こるとレピドゥスはこれを利用しオクタヴィアヌスを打倒しようと画策します。ところが陰謀は発覚しレピドゥス汚職と反乱の嫌疑を受け失脚しました。終身職である最高神祇官以外のすべての官職を剥奪され追放されます。レピドゥスの勢力圏はオクタヴィアヌスが接収しました。イタリア半島支配下に収めたオクタヴィアヌスアントニウスの対立は決定的になります。

 次回、両者が雌雄を決したアクティウムの海戦を描きます。