どんな王朝でもいつかは衰退期に入り滅亡するのは世界史の流れです。サファヴィー朝も例外ではありませんでした。英主シャー・アッバース1世の死後凡庸な君主が続きます。宮廷は権臣たちの権力闘争の場となり、官僚制度は腐敗しました。16世紀ごろから西欧の勢力がイランにも浸透しつつありましたが、17世紀末にはロシアがカスピ海沿岸に進出、コサックを使ったサファヴィー領への略奪も始まります。
王朝を一番悩ましたのはアフガン人の台頭でした。実はアフガニスタンという国はもともと存在していません。アフガン人とは現在も内戦の主役であるパシュトゥーン人の別名で、彼らが中心となってイラン系のタジク、トルコ=モンゴル系のハザラ、ウズベックなどの諸民族を纏め一大勢力となったためこの地をアフガニスタンと呼ぶようになりました。
パシュトゥーン人の存在がはっきりしてきたのは13世紀と新しく、種族的にはイラン系とトルコ系の混血でいくつかの諸民族が集まって形成された民族であろうと言われます。剽悍な山岳遊牧民族であるアフガン人に、ムガール朝もサファヴィー朝も悩まされました。カンダハル地方のギルザイという部族が1709年サファヴィー朝に対し反乱を起こします。サファヴィー朝はグルジア出身のキリスト教徒将軍グルギンに2万の兵を与え鎮圧に向かわせました。一時的に鎮圧されますが、ギルザイの首長ミール・ヴァイスはグルギンを騙し討ちにし再び蜂起します。ホラサン駐留のサファヴィー軍が討伐に派遣されますが、反乱軍はこれを撃破し手がつけられなくなりました。
反乱を起こしたアフガン人たちは、マフムードという男を首長に選出します。マフムードはサファヴィー領に攻め込み暴行略奪の限りを尽くしました。マフムードの率いるアフガン兵はわずか2万余りだったそうですが、腐敗したサファヴィー軍は成すすべもなく敗れ去ります。1725年マフムードが発狂し暗殺されなかったらサファヴィー朝はこの時滅びていたかもしれません。
1722年にはアフガン軍によって帝国の首都イスファハーンも陥落しています。時のシャー、タフマースブ2世(在位1722年~1732年)は、アフガン軍に首都を追われホラサン地方に落ちのびます。この地でタフマースブ2世を保護し後援した一人の男がいました。その名はナディル・クリー・ベク。後にナディル・シャー(1688年~1744年)と名乗るのでこちらの名前で通します。
ナディルは、ホラサン地方マシュハド北方ダストギルド出身。トルコ系オグズ族アフシャール部族連合キルクルー族族長の息子だとも貧しい牧夫の子だとも言われはっきりしません。ただ、長ずるにつれアフシャール部族連合を纏め上げその指導者になった一代の風雲児でした。ナディル・シャーはタフマースブ2世を助け、1729年ダムガーンの戦いでギルザイ族を撃破、1730年にはギルザイ族の族長アシュラーフを捕えて処刑しました。
同年イスファハーンを奪回、タフマースブ2世は即位式を挙げます。これまでの経緯からナディル・シャーがサファヴィー朝内で最大の実力者になったのは当然でした。タフマースブ2世は、ナディル・シャーの傀儡になるのを嫌い1732年オスマン朝との戦争に突入します。ところがその戦争に完敗。首都に残っていたナディルはタフマースブ2世を追放、アルメニア、グルジアを割譲することでオスマン朝と講和します。その後、タフマースブ2世の子でわずか8カ月の幼児だったアッバース3世を即位させ、自分は摂政になりました。完全に傀儡です。
1736年には、そのアッバース3世を退位させ自分が即位しました。すなわちアフシャール朝の始まりです。サファヴィー朝の滅亡はあっけないものでした。すでにアフガン族の反乱の時点でサファヴィー朝の軍も官僚組織もガタガタで壊滅状態になっており実質的にはこの時滅びていたのでしょう。その後は、ナディル・シャー率いるアファシャール部族連合の上に名ばかりの存在としてタフマースブ2世が乗っかっていたというのが実態でした。ですから、タフマースブ2世追放の時も、アッバース3世退位の時もほとんど抵抗が無かったのでしょう。
ナディル・シャー(在位1736年~1747年)は最後の東洋的専制君主だと言われます。対オスマントルコ外交でロシアと結び、オスマン朝に奪われていたイラク地方に軍事進攻し奪回。1738年には東に矛先を変えカンダハル、ガズニ、ラホールとアフガン族が蜂起して奪っていた領土を取り戻しました。その勢いのままカイバー峠を越えムガール帝国に侵攻します。この時デリーを占領し有名な孔雀の玉座と800カラットと言われる世界最大のダイヤモンド『コイヌール』を戦利品として持ち帰りました。
1741年ウズベク族を撃破、1742年には海軍を使ってアラビア半島のオマーンを占領します。ナディル・シャーは冷酷非情な君主だったといわれます。1740年には旧主タフマースブ2世と二人の息子を処刑、1741年に暗殺未遂事件に関わったとして自分の息子でホラサン太守だったリダー・クリー・ミールザーを盲目にし、批判した多くの民衆を虐殺したそうです。
彼の非情な政策は、スンニ派だったナディルがイランの多数派だったシーア派と融和を図るためだったともされますが、強権を使ったそれは成功したとは言えません。1745年、マシュハドで反乱の動きがあるとして多くの軍人、官僚、市民の有力者を処刑します。その数百名にのぼりました。これは逆にアフシャール朝の官僚や軍人の間に恐怖を生みます。いつ自分が殺されるか分からないため戦々恐々としました。