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サファヴィー朝Ⅴ  「イスファハーンは世界の半分」

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 シャー・アッバース1世(1571年~1629年)は王子時代1572年、わずか1歳で祖父タフマースブ1世からホラサン総督に任命されます。これは父ムハンマド・ホダーバンデが現地のキジルバシと対立し収拾がつかなくなったための後任人事でした。もちろん1歳の幼児ですから能力があったわけではなく、王族を各地の太守に任命しないとキジルバシの台頭を押さえられなかったからです。

 アッバースは現地キジルバシの有力者の保護の下ホラサンで幼少期を過ごします。中央の政権争いとは無縁でしたが、逆にこれが結果的に権力争いに巻き込まれず生き残れた理由でした。祖父で2代シャーのタフマースブ1世が亡くなると、首都ガズヴィーンではアッバースの父も含む後継者争いが起こり大混乱に陥ります。1588年、アッバースはホラサンのキジルバシ達に擁立されてクーデターを敢行、父を退位させ第5代シャーとなりました。この時17歳。

 シャー・アッバース1世は、このままではキジルバシの有力者の傀儡として一生を過ごす運命だったと思います。ところが彼は一筋縄でいくような甘い人物ではありませんでした。おそらく隣国で最大の脅威だったオスマン朝に強く影響を受けたのだと思いますが、まず実力を蓄えるために二つの近衛軍団を編成します。

 一つは、グルジアアルメニア、チュルケスなど主にコーカサス地方遊牧民から選抜した「王のゴラーム(奴隷)」と呼ばれる騎兵軍団。これは1万5千の兵力でした。もう一つは「コルチ」と呼ばれるキジルバシの優秀な若者から選抜したシャー直属の騎兵軍団。こちらも1万5千。

 加えて、農耕民であるイラン人から選抜した歩兵軍団、大砲を装備する砲兵軍団を編成します。歩兵の主力武器はマスケット銃。ようやくサファヴィー朝も近代的軍隊となったのです。二つの近衛騎兵軍団と、マスケット銃歩兵軍団、砲兵軍団は対外的な意味もありましたが、ともすればシャーの命令にも従わないキジルバシを押さえこむ軍事力でもありました。

 アッバース1世が近代的軍隊を編成できたのは、その頃インド洋に進出してきたイングランド(イギリス)のジェームズ1世と結んだからです。1598年、キジルバシの勢力の強いガズヴィーンからイラン高原のほぼ中央に位置するイスファハーンに遷都します。イスファハーンはアケメネス朝起源の古代都市ですが、サファヴィー朝の首都となった事で空前の大発展を遂げました。最盛期の人口50万、あまりの繁栄ぶりに「イスファハーンは世界の半分」と称されるまでになります。

 国内を固めたアッバース1世は、反撃に転じました。まず1598年トランスオクシアナのシャイバーニー朝を討ちホラサン地方を奪回。ついで万全の準備の末1603年最大の宿敵オスマン朝に戦いを挑みます。これも10年以上の長い戦争になりましたが、今回はこちら側にもマスケット銃と大砲がありました。そうなると補給線の短い方が有利です。アッバース1世は、実に100年ぶりに旧都タブリーズを含むアゼルバイジャン地方、バグダードのあるメソポタミア地方をオスマン朝から奪還しました。1623年の事です。アッバース1世はこの功績により大帝と称えられます。サファヴィー朝最盛期を築いたシャーでした。

 1616年、イギリス東インド会社と貿易協定を締結。イギリスは軍事顧問団を送りこみサファヴィー軍の近代化に努めます。1622年には、ペルシャ湾の入り口ホルムズを占領していたポルトガル勢力をイギリスと共同で奪い返しました。当時のイギリスはオランダのマウリッツによる軍事革命の影響を強く受けていましたから、一時的にオスマン朝の旧態依然たるマスケット銃戦術より進化していた可能性があります。

 アッバース1世は、近代装備の常備軍の力を背景に王朝の癌になりつつあったキジルバシの力を押さえこみ、中央集権化を進めました。彼が卓越した君主であった事は間違いありません。ところが彼の死後それに匹敵するほどの名君が出なかったため王朝は緩やかな衰退に向かいます。1629年、アッバース1世死去。享年58歳。

 彼の死後10年もしないうちに、オスマン朝の反撃が始まりメソポタミアを再び奪還されます。以後この地をサファヴィー朝が回復する事はありませんでした。


 次回、最終回ナディル・シャーによる王朝簒奪とサファヴィー朝の滅亡を描きます。