さて、モンゴル高原にはアルタイ山脈とハンガイ山脈という二大山脈があります。アルタイ山脈はモンゴル高原西部を走り4300m級。一方ハンガイ山脈は高原の中央を西から真ん中くらいまで走り3500m級です。高原自体の平均高度が1580mもあるので比高はそこまで高くないんですが、ハンガイ山脈はセレンゲ川、オルホン川という二大河川の源流となっている重要な山脈です。
オルホン川とセレンゲ川は途中で合流しバイカル湖に注ぎます。これらはエニセイ=アンガラ水系に属します。オルホン川には東部のヘンティ山脈から発し首都ウランバートルを通って西流し合流するトーラ川という重要な川があります。西から、セレンゲ川、オルホン川、トーラ川という位置関係です。
一方、東部にはケルレン川、オノン川という別の大きな水系があります。ケルレン川もトーラ川と同じヘンティ山脈が源流です。ヘンティ山脈がモンゴル高原の分水嶺となります。ケルレン川は不思議な川で黒龍江と合流する手前、フルン・ノール(呼倫湖)に流れ込みます。その北、ブルカン山に始まり黒龍江に合流するのがオノン川です。ブルカン山は、チンギス汗の生まれ故郷だとされます。テムジン(後のチンギス汗)率いるモンゴル族が最初の拠点としたのがオノン河畔でした。
ケルレン川流域は、匈奴や鮮卑など主に支那方面に進出した遊牧民が本拠としたところです。やはり遊牧民族といえども分水嶺から川の流れに沿って移動するのかもしれません。ちなみに、チンギス汗の墓所はケルレン川流域のどこかとされますから、ヘンティ山脈か、あるいはブルカン山系のどこかかもしれませんね。近年発見されたチンギス汗の霊廟跡もやはりケルレン川流域だそうです。通常霊廟の近くに墓所は築かれる事が多いので、期待できますね。
話を戻すと、オルホン川はモンゴル高原のほぼ中央を流れるため多くの遊牧民族が本拠を置きました。カラコルム近辺は匈奴も後に王庭(遊牧国家の首都)を置いたそうです。ハンガイ山脈の南側より、河川が多い北側の方が発展していたんでしょうね。水辺の方が牧草も育ちそうですし。漢代、衛青と霍去病がここまで遠征してきたかと思うと驚きますね。ゴビ砂漠を超え、モンゴル高原もハンガイ山脈を越えないと満足な水も得られないんですから。漢の国家財政が傾くわけですよ。一方、匈奴は川沿いにバイカル湖周辺まで逃げればいいんですから楽でしたね。農耕民族の軍隊は、遊牧民族の軍隊と戦う時に攻城戦はほとんどなく野戦軍を撃破しなければいけないので大変でした。逆に遊牧民は不利になったら機動力を生かし逃げればいいんですから銃の普及する以前圧倒的に有利だったわけです。
明代の永楽帝の遠征はどうしていたのか疑問です。やはり漢代と共通の補給(特に水)の悩みは尽きなかった事でしょう。
地理を考えると、歴史は本当に面白いですね。