鳳山雑記帳はてなブログ

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中世イスラム世界Ⅶ  ホラズム・シャー朝

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 ホラズム、アラビア語でフワーリズムというのは地名です。アラル海に注ぐ大河アムダリアの下流に当たるデルタ地帯を指します。このあたりは肥沃で紀元前から農耕が発達し当時の遺跡も数多くあります。ホラズム南東に隣接するソグディアナのソグド人と同様アーリア系民族だったと考えられます。
 
 中央アジアの先進地帯のひとつで豊かだった一方、周辺の遊牧民族からしばしば略奪や侵入をうけました。歴史上ホラズムという国名が有名になったことが一度だけあるのですが、その支配民族はホラズム人ではなくトルコ人でした。
 
 ホラズムを建国したのはセルジューク朝に仕えたトルコ人の将軍クトゥブッディーン・ムハンマドです。1097年ホラズム総督に任命されたクトゥブは、ホラズム・シャー(ペルシャ語で王の意味)を自称します。
 
 最初はセルジューク朝の力が強かったため服従の姿勢を示していましたが、2代シャー、アトスズの時代セルジューク朝が衰えたのを見て1135年自立の構えを見せます。しかし衰えたりとはいえセルジューク朝はまだまだ強力でスルタンのサンジャルは討伐軍を送ってこれを鎮圧します。
 
 こうして再び服属したホラズムですが、中央アジア契丹族の西遼(カラ・キタイ)が進出してくるとこれと秘かに結んでセルジューク朝と対抗しようとしました。1141年、サマルカンド近郊のカトワーンでサンジャルが西遼軍に敗北するとホラズムは完全に独立を果たします。
 
 
 しかし状況は甘くなく、今度は西遼がこの地に進出しホラズムは屈服して属国となりました。1172年後継者争いが起こりアラー・ウッディーン・テキシュがこれに勝利して第5代シャーを継ぐと、1194年からイラン高原に進出を開始します。西遼の支配は緩やかなもので貢納金を収めればよかっただけでしたので、西遼自体が衰退してくると自然独立できたのです。西遼も再びホラズムを攻めて服属させる力はありませんでした。
 
 
 1194年分裂したセルジューク王朝の一つイラクセルジューク朝のトゥグリル2世を破って滅ぼすと、アッバース朝カリフはテキシュを正式にスルタンとして承認します。こうしてホラズムは自他共に認める大セルジューク朝の後継者となりました。
 
 1200年、テキシュが亡くなると後を息子のアラー・ウッディーン・ムハンマド(在位1200年~1220年)が継ぎます。このムハンマドの時代がホラズム朝の絶頂期でした。アフガニスタンから北インドにまたがるゴール朝の侵略を撃退すると、逆にゴール領内に攻め込みアフガニスタンの重要都市へラートやバルフを占領します。旧宗主国の西遼にも戦いを挑みここでは一敗地に塗れますが、西遼の簒奪を企むナイマン族のクチュルクが協力を要請するとこれと同盟し再び西遼を攻めました。今度は西遼の領土の一部を併合します。
 
 
 1212年ムハンマドは、それまでの首都ホラズムの中心都市だったウルゲンチからサマルカンドへ遷都しました。ここはシルクロードの要衝で、ムハンマドが大帝国を建設しようとした意図が窺われます。1215年にはゴール朝を滅ぼし、イラン高原へ進出してアッバース朝カリフを圧迫しました。
 
 まさに得意の絶頂にあったムハンマドですが、この頃東アジアではモンゴルのチンギス汗が台頭していました。最初東西の二大強国は交易関係を結ぼうとします。ところが交易品に目がくらんだホラズムのオトラル太守がモンゴルの使節団を殺害し財宝を奪うという事件が起こりました。
 
 これに怒ったチンギス汗は詰問の使者をムハンマドに送りますが、ムハンマドが犯人引き渡しを拒んだため1219年チンギス汗は二十万の大軍を率いてホラズムに攻め込みました。
 
 
 と、ここまでは公式の話。元朝秘史などに紹介されている話ですが、東洋史家の杉山正明氏によると大軍の遠征には何年も準備が必要で、事件が起こったからといってすぐ出発できるものではないとの事。とくにモンゴルは遠征に何年も準備をかけるので、このエピソードは怪しいと著書で述べられています。
 
 実際、チンギス汗は早くからホラズム領を窺い侵略の機会を待っていたのではないか?という考察です。平和的な交易使節団ではなく、やはり何らかのスパイ活動がありオトラル太守はそれを摘発したのだろう、と。私も同感です。いくら太守が無能でも財宝に目が眩んだからといって使節団を殺すでしょうか?そんな事をしたら大事件になり戦争が起こると云うのに…。
 
 
 モンゴル軍は怒涛の勢いでホラズムに攻め込みます。ホラズム軍の主力はトルコ人マムルーク(軍人奴隷)の騎兵でしたが、モンゴル軍と正面からぶつかったという話は聞きません。それだけモンゴル軍の侵攻が急だったということかもしれませんが、ムハンマドサマルカンドやブハラなどの大都市に籠城する策を採ります。ある説では、ホラズム軍は遊牧民族の寄せ集めの兵だったためモンゴルへの寝返りを恐れていたとも云われます。
 
 モンゴル軍は騎兵なので何年もかかる籠城戦には耐えられないだろうという読みでした。ところがモンゴル軍は征服した農耕民族の兵士も多数加えており攻城兵器も豊富に持っていました。サマルカンド、ブハラは火の出るようなモンゴル軍の攻撃で次々と陥落します。モンゴル軍は降伏する都市には寛大でしたが、ひとたび反抗したら容赦しませんでした。
 
 サマルカンドやブハラは徹底的な破壊を受け、数十万の住民は役に立つ職人だけを残してことごとく虐殺されました。サマルカンドの旧市街はこの時破壊され二度と復活する事はありませんでした。ホラズムの旧都ウルゲンチも水攻めを受け壊滅します。
 
 たまらずムハンマドは逃げ出し、イラン方面に向かいました。チンギス汗は追撃部隊を送りムハンマドを追わせます。追い詰められたムハンマドカスピ海南岸のエルブルズ山脈を越えカスピ海上の孤島に逃れました。1220年12月、ムハンマドはこの島で寂しく世を去ります。ホラズム朝はこの時一旦滅亡しました。
 
 
 しかし、ホラズムの抵抗運動は続きます。父ムハンマドと別行動を取った王子ジェラール・ウッディーンは手勢を率いアフガニスタンの山中に向かいました。モンゴルの将軍シギ・クトク率いる3万の軍をアフガン山中に誘い込みこれを撃破します。負け続きのホラズム軍で初めての大勝利でした。しかしこれで逆にモンゴル軍の目標になりチンギス汗はジェラール・ウッディーン追撃戦を自ら指揮します。
 
 インダス河畔に追い詰められたジェラール軍は、絶体絶命の窮地に陥りました。しかしジェラールは突如馬を河中に躍らせインダス河を渡りはじめます。部下たちもこれに続きました。
 
 チンギス汗は、ジェラールの武勇に感心しあえて追撃の矢を射させなかったそうです。
 
 
 モンゴル軍が東に去ると、インドに逼塞していたジェラールは再び活動を再開させます。イラン高原に秘かに舞い戻ったジェラールはこの地で挙兵しモンゴルの留守部隊を駆逐しました。ジェラールはイスラム諸国へモンゴルへの共闘を持ちかけますが、ホラズム自体が自分たちへの侵略者だったので誰も信用しませんでした。
 
 そんな中、チンギス汗の後を継いだオゴタイは1231年ジェラール・ウッディーン追討軍をイランに派遣します。モンゴル軍襲来を知ったアゼルバイジャンの住民たちはことごとくジェラールから離反しモンゴル軍との決戦にも敗北しました。ジェラールは再び逃亡を余儀なくされます。
 
 ジェラールは東アナトリアの山中をさまよっていた時、恨みを持つクルド人に捕えられ殺されてしまいました。一度は再興したかに見えたホラズム朝は英雄の死と共に完全に滅亡します。