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飛将軍李広と西涼の武昭王

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 最近、モンゴルというか遊牧民族話が続きますがこれも関連記事かな?

 飛将軍李広、史記漢書など漢籍に明るい人か支那の歴史ファンの方ならご存知だと思いますが、最近は高校の漢文くらいでしか紹介されないので一般の方はご存じないでしょう。李広は、前漢武帝時代の将軍で武勇に優れるも世渡りが下手で、最後は匈奴遠征の行軍途中道に迷い集合の期日に遅れ、総大将衛青から詰問された事を恥じ自害した悲運の名将です。

 朴訥として飾らない性格だったため民衆から愛され、彼の死が伝わると皆涙したそうです。後日譚があり、李広の三男李敢は父の死のいきさつから衛青を恨み酒席で殴打したそうですが、衛青も奴隷からたたき上げの苦労人だったために李敢の気持ちをくんで不問にしました。ところが、衛青の甥霍去病は激高し狩猟場で李敢を暗殺します。霍去病は武帝の寵臣だったために処罰されず有耶無耶で終わりました。私は、これがあるために世間では名将として人気が高い霍去病をどうしても好きになれないんです。

 話はさらに続き、李広の若死にした長男李当戸の嫡男に李陵という人物がいました。彼も武勇で名高かったそうですが、匈奴との戦争で六倍の敵に包囲されるも八日間守り抜き刀折れ矢尽きてやむなく降伏してしまいます。武帝はこれを怒り李陵の家族を処刑しようとしました。この時、李陵と親交のあった史官司馬遷は彼のために弁護します。そして武帝の逆鱗に触れ宮刑(去勢)にされました。その後許されて宦官として出世しますが司馬遷の屈辱感は晴れず、家業だった史書の編纂に後半生を捧げます。こうして完成したのが有名な史記で、現代でも愛される不朽の名作となりました。




 前置きが非常に長くなりましたが、李広が集合の期日に遅れたのは現地匈奴人の案内人がいなかったからではないかと考えます。前記事で書いた通り、匈奴の中心地オルホン河畔に行くには広大なゴビ砂漠を越え大草原地帯を進まなければなりません。漢軍は農耕民族の軍ですから、騎兵が少なくおそらく李広の部隊は歩兵中心だったはず。数少ない騎兵は主力の衛青や霍去病の部隊に回されたはずですから。

 水場は現地人でなければ分かりません。機動力もない李広の軍は水場を探しながらの行軍だったでしょうから遅れるのは当然でした。一方、衛青や霍去病の軍は騎兵中心で条件は匈奴軍と同じでしたから活躍するのは当たり前だったと思います。もちろん両者の将軍としての能力は認めますが…。

 それでも匈奴に止めをさせなかったのは、遊牧民族は不利になると民族ごと遠くに移動し逃げる事が可能だったからです。これをいくら騎兵中心とはいえ農耕民族の軍が捕捉するのはまず不可能。彼らには農耕民族のように籠城戦という概念がありませんでした。明の永楽帝も五次にわたるモンゴル高原遠征を行いますが、ほとんど成果が上がらなかったのは同じ理由です。

 武帝は、何度も匈奴遠征を繰り返しますが複数の部隊を同時に出し、一部隊は主力でも五万を超える事はほとんどありませんでした。酷い場合は遼東方面、大同方面、甘粛方面と大きく離れた場所から同時に進軍します。これは補給の問題からでした。これでは共同作戦の意味がほとんどありません。それでも漢の国家財政は傾き王朝の衰退を招きました。マスケット銃の普及による近世の軍事革命まで、遊牧国家の農業国家に対する優越は続きます。



 ところで話は飛びますが、五胡十六国時代匈奴など五つの異民族が西晋を滅ぼして華北各地に国家を建設しますが、すべてが異民族だったわけではなく少数ですが漢人の建てた国もありました。その中の一つ、敦煌を都とし甘粛省一帯を領土とした西涼を建国した李暠(りこう、武昭王)は漢の飛将軍李広の子孫を自称します。李広の次男李椒十五代目の子孫だそうです。出身地が隴西。隴西の李氏といえば皆李広の子孫を称しましたから可能性はなくはありません。李広の先祖秦の将軍李信も武勇で名高かったですし、李広の子孫を称すれば漢人の支持を得やすかったのかもしれません。三国時代呉の孫氏が春秋時代の兵法家孫武の子孫を自称したのと同じ心理でしょう。


 ちなみに唐を建国した李淵も武昭王八世の孫を称します。ところがこちらは鮮卑族出身なのが明らかですので嘘です。蛮族でなく有名な李氏の子孫として漢人の支持を得たかったんでしょうけど、漢人たちは冷笑していたかもしれませんね。李淵の涙ぐましい努力は認めますが(笑)。反対に鮮卑族の子孫という事で、唐の皇帝は天可汗として遊牧民族から支持を集め広大な領土を獲得できたんですから、痛し痒しでしょうね。