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ローマ帝国建国史Ⅲ   マリウスとスラ

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 ルキウス・コルネリウス・スラ(BC138年~BC78年)は名門コルネリウス一門に属しながら家系は没落していました。スラは、零落した家門の復興を生涯の目標に掲げ紀元前107年財務官に当選します。その時の執政官が彼の生涯の宿敵となるマリウスでした。

 ユグルタ戦争ではマリウスの副官として参戦し、大きな功績を上げます。民衆派のマリウスが凱旋将軍としてローマに戻ると、閥族派はスラに目を付けました。軍才でマリウスに勝るとも劣らないスラをマリウスの対抗馬にしようと思ったのです。スラも野心があったのでこれに応じます。

 紀元前90年、イタリア半島同盟市戦争が勃発しました。原因は戦争の時ローマ軍に駆り出されながら平時にはローマ市民と差別されていた事にローマの同盟市のイタリア人が不満を抱いての蜂起です。イタリア半島でローマと同盟していたすべての都市が立ち上がったと言われますから、彼らの不満は以前から蓄積していたのでしょう。この時マリウス65歳。マリウスもスラも共に軍を率いて鎮圧に当たりますが、若いスラの方が軍功めざましく結局スラの意向にそって同盟市との講和が進められました。スラは戦争の原因がローマ市民権の有無だと判断し、ローマ市民権授与を餌に同盟市を切り崩します。これが功を奏し反乱軍は弱体化しました。同盟市もローマを滅ぼす意図はなくイタリア半島においてローマ市民と同格になれれば良かったのです。同盟市側もローマとの運命共同体意識は持っていました。

 戦争は続きます。今度は小アジアアナトリア半島)北部黒海沿岸ポントス王国の王ミトリダテス6世が戦争を仕掛けたのです。ミトリダテスはローマが同盟市戦争で海外に目を向けられない隙を衝いて小アジアギリシャ周辺の親ローマ勢力を攻撃し大きな勢力を築いていました。執政官(コンスル)だったスラは自ら軍を率い討伐に向かいます。

 ところが、スラが不在の隙にマリウス派の護民官スルピキウスがマリウスにミトリダテス戦争の指揮権を与える法案を民会に提出、可決させました。さらにスルピキウスは手勢を率い元老院に乗り込みスラ派の元老院議員を粛清、マリウスを呼び寄せます。この時スラは、まだイタリア半島を離れておらず遠征の軍団を掌握したままでしたが急遽ローマに戻りました。マリウスは、スラがここまでするとは思っておらず市内に兵力もなかったので支持者と共にローマ国外に亡命します。スルピキウスはこの時殺されました。

 紀元前87年、マリウス派だったキンナが執政官に当選するとスラは自分が小アジアに出陣中絶対に裏切らないように確約させ不安を残しながらもローマを離れました。ところがキンナはやはりすぐ裏切ります。北アフリカに亡命していたマリウスに使者を送りローマ入城を懇願しました。マリウスは前回の失敗に凝り軍を率いてローマに向かいます。ローマを制圧したマリウスは、閥族派の貴族を次々と逮捕し元老院から一掃します。同時にイタリア半島の全イタリア人にローマ市民権を与える約束したため、同盟市はほとんどマリウスに味方し同盟市戦争は完全に終息しました。

 ギリシャに渡っていたスラは、マリウス軍ローマ制圧の報告を受け愕然とします。ただ自分のなすべき責任を最優先しミトリダテス王を攻めるべく小アジアに渡りました。敵中に孤立したスラでしたが、持ち前の軍才と指揮下のローマ軍団兵の精強さによってポントス軍を撃破、講和に持ち込みます。その直後執政官マリウス病死の報が入りました。残ったキンナは小物でどうとでもなる存在です。

 そのキンナは、スラがローマに戻る事を恐れ民衆派の指揮する軍団をスラ討伐に派遣します。しかしスラは、討伐軍の指揮官と会見しこの軍団も指揮下に治めました。紀元前83年、万全の準備を終えたスラ軍はアドリア海を渡ってイタリア半島南部に上陸、ローマを目指して一直線に北上します。この時、グナエウス・ポンペイウスや大富豪クラッススらが合流しスラ軍はますます膨れ上がりました。ポンペイウスはまだ20代の若者でしたが、私財を投じて2個軍団を編成(厳密に言うと法律違反)したそうです。ポンペイウスはスラお気に入りの側近になります。

 本来ローマの法では、将軍が軍を率いてローマに入城する事を禁じていました。後年カエサルルビコン川を渡る事を躊躇したのもそのためです。ところがスラは、全く意に介さず軍を進めます。スラのローマ入城が共和政ローマ崩壊の第一歩だったと言えるかもしれません。ローマ市はスラに降伏を申し出ますが、彼は構わず攻め立てます。軍事的にローマを制圧し、多くのローマ市民を殺戮しました。

 スラは冷酷非情だと言われますが、この時の処置も影響していると思います。マリウスの民衆派貴族や有力市民を次々と逮捕処刑し、財産を没収しました。スラは気に入らない人間は思想に関係なく物理的に処分したそうですから恐ろしい。ある時処刑リストに一人の若者が載りました。キンナの娘を妻としていたからです。しかし、若者が政治的に何の実績もなくスラや閥族派に敵対行為すらしていない事を考え、側近たちはスラに助命嘆願をします。若者が名門ユリウス一門に属していたことも考慮してでした。

 スラも、あまりの煩さに渋々若者を処刑リストから外します。ただ同時に「君たちは分からないのか。あの若者の中には百人ものマリウスがいることを」と付け加える事を忘れませんでした。この若者こそガイウス・ユリウス・カエサル。スラの恐れた通り後年閥族派を完全に葬り去り帝政ローマへの基礎を築く人物です。

 スラは助命の条件としてカエサルにキンナの娘との離婚を命じます。しかしカエサルはこれを拒否、小アジアへ亡命しました。若きカエサル豪胆さ、権力に屈しない反骨精神が垣間見えて面白いですね。スラは終身独裁官(ディクタトル)を宣言します。元老院からの任命ではなく宣言でした。独裁官とは戦争などの非常時に国家の全権を担って難事にあたる役職ですが、王にも等しい権力を持つため任期は半年と決まっていました。それをスラは公然と無視したわけです。

 独裁官スラは、元老院議員の定数を600人に倍増、退役兵へ土地を与えて植民させる政策、執政官・法務官経験者を属州総督に派遣するプロコンスル、プロプラエトル総督制度など次々と改革を断行します。スラは建前上は共和政の維持、元老院の護持を唱えますが、事実上この時共和政は崩壊し始めていました。紀元前80年、独裁官を辞任したスラは隠棲します。ところが数年後病を得て亡くなりました。紀元前78年のことです。享年60歳。

 反対派の貴族たちはスラの遺骸を野に晒すべきだと主張しますが、遺言通り盛大な葬儀が営まれました。スラの死後まもなく、ローマ全土を巻き込んだ大規模な奴隷反乱スパルタクスの乱が勃発します。鎮圧に活躍したのはスラ門下のポンペイウスクラッススでした。そして亡命から戻ったカエサルと共に第1回三頭政治へと向かいます。

 次回、スパルタクスの乱とポンペイウスの台頭を描きましょう。