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春秋戦国史Ⅱ  春秋列国・後編(異姓の諸侯)

 前編で主要な姫姓(周王室の一族)の諸侯を紹介したので、後編では異姓の諸侯を記します。


◇斉 
 周の文王、武王に代にわたって仕えた軍師、太公望姜子牙(呂尚ともいう)が山東省の臨淄(りんし)に封じられたのが始まり。爵位は公爵。斉の地は塩分が多く農業に適さない貧しい土地だった。商才に長ける姜子牙は、逆にこれを利用して製塩業を興し交易によって国を富ませ次第に強大化した。最初の覇者桓公を出す。

 春秋戦国時代を通して強国の地位を保つが、公室は陳から亡命してきた田氏に紀元前386年乗っ取られた。以後は区別するために田斉とも呼ばれる。前221年秦によって滅ぼされる。


◇宋
 前王朝商の最後の王帝辛(紂王)の異母兄で賢者と名高かった微子敬が河南省商丘に封じられたのが始まり。古代支那の考え方として滅ぼした相手の先祖の祭祀を絶やす事は罪であり祟りがあると考えられていたためこういった処置が取られた。ちなみに商の前の夏王朝の子孫も山東省の杞(き)に封じられている。

 国民はほとんどが商の遺民。爵位は前王朝に敬意を表して最高位の公爵。成立の経緯から周辺諸国から侮られていた。その屈辱感を晴らすために襄公が頑張ったが失敗する。これは宋襄の仁という故事で有名。紀元前286年斉に滅ぼされる。


◇秦
 発祥の地が陝西省西戎地域の真っただ中にあったため、おそらく出身は西戎の一派だと思われる。紀元前770年、犬戎によって一時周が滅ぼされ東遷する際、これを助けた事から諸侯の列に加わる。最初の爵位は子爵。のちに侯爵、公爵を称す。

 建国当初は西の辺境に位置し取るに足らない小国だったが、良馬を産する遊牧民や当時から存在したシルクロードを通じた交易で国を富ませた。9代穆公(ぼくこう)の時代に、名臣百里奚を登用して俄かに強大化。国民は漢民族と異民族が混在し厳しい法律によってしか統御できない国であったため法治主義が発達し、尚武の国民性から軍事面で優位に立つ。

 戦国時代末期には、太刀打ちできる国が無いほど成長し最後は秦王政が天下を統一し始皇帝を称した。


◇楚
 実は楚は周王朝に封じられた国ではない。民族も南蛮と呼ばれたタイ族系だと云われる。ただし東夷説もありはっきりしない。周王朝に服属して子爵を授けられるが、周が衰えると勝手に自立して王号を称した。発祥の地は漢水上流の漢中(陝西省南部)で、漢水に沿って南下し長江中流域の湖北湖南の地に強大な国を建国する。その際、周の諸侯国をいくつか滅ぼした。覇者とはもともと楚に対抗するための周の諸侯連合の盟主という位置づけだった。

 春秋時代は、北方の大国晋とともにニ大強国を形成しこの二国の動きが国際情勢を左右した。春秋時代末期、晋は楚に対抗するため東にあった呉を援助し呉が台頭。楚は一時呉軍に侵略され滅亡寸前に陥った。皮肉な事に、呉をあまりにも強大化させてしまったため晋は後に呉軍に脅され会盟に参加させられるという屈辱も味わう。

 戦国時代も強国の地位を保つが、呉起を起用した悼王の改革が王の急死で頓挫した後は衰え、最後は紀元前223年秦に滅ぼされた。ちなみに秦を滅ぼした後天下を争った項羽と劉邦はともに楚の出身。項羽が降伏した秦兵20万を大量虐殺したのは、この時の恨みを晴らす意味もあったと云われる。


◇越
 こちらは東夷の一派である越族系。ベトナムを建国した越族の先祖だと言われる。一説では長江文明の末裔とも。厳密に言うと周の諸侯国ではない。最初は弱小国で呉の属国だったが、越王允常の時代に豊富な金属資源を基に急速に台頭。宗主国呉に背く動きを見せたため、允常の子勾践の時代に呉王闔閭(こうりょ)の討伐を受ける。

 ところが逆にこれを撃破し、闔閭はこの時の戦の傷が悪化し死亡する。後を継いだ息子呉王夫差との臥薪嘗胆の故事はあまりにも有名。このエピソードは後に詳しく書く予定。勾践は最終的に呉を滅ぼし、春秋時代最後の覇者となる。

 戦国時代、領域国家の時代に入ると文化的に遅れた越は中原諸国に取り残され焦った越は楚に攻め込むが楚の威王に逆に撃退され本土まで攻め込まれて滅亡する。紀元前334年のことである。





 春秋時代の語る上で最低限抑えてほしい基礎知識を書きました。次回は春秋時代最初の覇者斉の桓公について記します。