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春秋戦国史Ⅷ  呉越の戦い

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 呉王闔閭(こうりょ)の楚侵攻は春秋時代を通じて晋と並ぶ超大国だった楚を衰退させ、逆に中原の域外だった蛮国呉を中原に覇を唱える強国に押し上げました。それと同時に、目立たない事ですが同じく西方の蛮国だった秦もおそらく滅亡寸前の楚に援軍を出した見返りにこの時漢中盆地全土を割譲させたのではないかと思います。

 秦がBC316年四川盆地にあった蜀を滅ぼし列強の仲間入りし最後は天下統一するのは、この時の漢中盆地獲得が大きかったのではないかと考えます。地図を見てもらうと分かる通り漢中盆地は秦の中心部である渭水盆地と秦嶺山脈を隔てて隣接するばかりでなく、南下すれば蜀(四川地方)へ、漢水沿いに下れば楚の中心地域である湖北平野に達する戦略上の要衝でした。

 逆に楚は、この戦いにより超大国の地位から滑り落ち戦国時代には一地域大国に落ちぶれます。悼王が兵法家呉起を登用し改革を推進したのは衰退した楚を再び大国の地位に押し上げようとしたからでした。それも悼王の死で頓挫し、漢水沿いに南下してきた秦軍の攻撃で首都郢(えい)を陥れられ淮河沿いの陳に遷都せざるを得なかったのは大国楚の終焉を示していました。

 ところで、呉です。呉王闔閭は再び楚に攻め入って今度こそ宿敵の息の根を止めようと考えていましたが、国内事情が許しませんでした。属国であった南方の越の離反です。越は、呉よりもさらに後進国でした。現在の浙江省あたりが領土で首都は会稽(かいけい)。越が富強になったのも、呉と同じく金属資源の豊富さと開発すれば豊かになれるポテンシャルを持った国土が理由でした。のちの宋時代、呉と越の領域が「江浙熟すれば天下足る」と称された事でも分かります。

 過去記事で考察したことがあるのですが、実は支那大陸における製鉄技術の伝播はシルクロードに近い西部ではなく東シナ海沿いの沿岸部が先でした。これは製鉄に大量の木炭が必要だというのも理由の一つで、オリエントからインド、東南アジアを経て呉越の地に技術が伝わったのだと思います。もっとも浸炭法による高度な製鉄技術は戦国時代中期以降普及したのでこの当時は青銅器中心でした。私はすでにこの地方に、東南アジアから伝わった高度な金属精製、加工技術があったのではないかと推理しています。

 さらに、史書では語られてないのですが越の台頭は楚の援助があったと考えるのが自然です。皆さん、呉が強国になったのは晋が楚を牽制するために援助したのがきっかけになった事を覚えておられるでしょう。その成功例があるのですから(そして自分が実際に酷い目に遭っているのだから)、楚が対抗策を講じないはずがありません。その証拠に越王を助けた范蠡(はんれい)も文種もともに楚人です。

 越は越王允常(いんじょう)の時代に急速に台頭し宗主国呉を脅かす存在となります。最初は蛮国と侮っていた闔閭ですが、越は放置できないほど強くなっていました。BC496年、その允常の死去を絶好の機会として闔閭は後顧の憂いを断つため出陣します。

 伍子胥は、「相手の不幸に付け込み攻めるのは義に反します。今回の出陣は見送られた方が良くありませんか?」と王を諌めますが復讐心に燃える闔閭は聞き入れませんでした。允常の後を継いだ子の越王勾践(こうせん)は、これを槜李(すいり)で迎え撃ちます。

 戦いは、恐るべき野蛮な儀式で始まりました。越軍の陣営から百名ほどの異様な一隊が出てきて呉王に挨拶しては自刎するという信じられない事態が起こります。それが三度、あまりにも凄惨な光景に呉軍が度肝を抜かれていると、越軍本隊が突如として動き出し茫然としている呉軍に襲いかかったのです。范蠡の策だったと云われます。戦いは当然呉軍の敗北でした。闔閭はこの時越軍兵士の振り下ろした片鎌に靴を落とされ足の指に傷を負ってしまいます。おそらく毒でも塗ってあったのでしょう。

 やがて足の親指は腫れ、高熱が出てきて身動きが取れなくなってしまいました。闔閭は陣中に太子夫差を呼び寄せます。
「夫差よ、そなた越人が父を殺した事を決して忘れるでないぞ。余のために葬儀は要らん。越を討って勾践の首を墓前に供えるのだ」
そう言って息絶えました。不世出の英雄、呉王闔閭の最期です。闔閭は死の間際、もっとも信頼する伍子胥にも夫差の事を頼んでいました。

 ところが、呉王夫差(在位BC495年~BC473年)が即位すると太宰(宰相)に任じられたのは伍子胥ではなく伯嚭(はくひ)でした。先王の遺言からも、夫差を太子にした功績からも伍子胥がなるものと誰もが思っていました。しかし、どうも厳しい性格の伍子胥を夫差が煙たく思ったのかもしれません。猜疑心強く欲深い伯嚭の太宰就任は心ある呉の人々の気持ちを暗くさせました。驕慢な性格の夫差と伯嚭は馬が合ったのだと思います。

 それでも最初、夫差は父の遺言を守り寝るときは薪の上で痛みに耐えつつ眠り、事あるごとに家臣に「なんじは勾践が父を殺した事を忘れたか?」と言わせ「決して忘れません。三年のうちには越に復讐します」と誓いました。これが有名な故事「臥薪嘗胆」の臥薪の部分です。

 即位して二年後、夫差は呉軍の全兵力をもって越を討ちました。まともにぶつかれば呉軍の方が強く、越王勾践は敗れて五千の手兵と共に会稽山に追い詰められます。范蠡は、呉の太宰伯嚭が欲深で金銭にだらしない性格であると見抜き勾践に勧めて莫大な賄賂を贈りました。これが効果を発揮し伯嚭は越のために夫差に取りなします。

 この事を聞きつけた伍子胥は、
「天が越を滅ぼそうとしているのです。この機会を逃せば災いは呉に向かいますぞ」と強く諌めました。ところが逆に夫差の不興を買います。結局伯嚭の意見が通り、夫差は越の降伏を認めました。勾践は妻と共に呉王宮に出仕し奴隷のごとく仕えました。そればかりか西施という絶世の美女を献上します。

 西施の色香に溺れた夫差は、勾践を許し帰国させます。帰国した勾践は苦い肝を嘗めて復讐を誓いました。これで臥薪嘗胆の故事が完成します。越は、以後国力の回復に努め呉に対しては下手に出続けました。油断した夫差は、父が成しえなかった悲願、会盟を執り行い覇者になる事を夢見て中原に遠征を繰り返します。

 伍子胥は越の危険性を訴え続け夫差の行動を諌めましが、越から賄賂を貰った伯嚭が夫差に讒言したためついに王の怒りを買います。絶望した伍子胥は、斉に使者に行った時息子を斉の大夫鮑氏に託します。これが直接の原因となり、伍子胥は夫差から死を賜りました。

 死の間際、「自分の墓の上にの木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」という有名な言葉を残し自害します。

 流石の呉も、連年の出兵は国力を大きく費やしました。斉を破り、魯を脅しBC482年には黄地に諸侯を集め念願の会盟を執り行うまで至った夫差ですが、ここでかつての覇権国晋の定公と主導権争いが生じました。晋としても新興の蛮国呉の下風につく事が我慢ならなかったのでしょう。そんな中呉の本国は、越王勾践の侵略を受けます。呉軍主力の不在に乗じたのです。呉の留守軍は敗れ、太子友が斬られます。愕然とした呉の諸将は即時帰国を進言しますが、夫差は認めませんでした。

 その上で、夫差は呉軍を率いて晋の定公の前に出ます。定公も呉軍の強さは知っていましたから震えあがり、揉めていた会盟の長争いは夫差が勝ちとりました。儀式が終わると夫差は急ぎ軍を率いて帰国します。越もこの時は、一気に呉を滅ぼす力はなく和睦しました。

 BC473年、越王勾践は再び呉を攻めます。連年の出兵で国力を消費していた呉にこれを防ぐ力はなく首都姑蘇は陥落しました。この時、越王勾践はかつて自分が会稽山で命を助けられた恩を思い出し、夫差の命を助け甬東(ようとう、現在の船山列島)に流そうとします。ところが夫差は「私は年老いました。とても王にお仕えすることはできません」とこの申し出を断ります。そして「伍子胥に会わせる顔がない」と言って自ら布をかぶり自害しました。勾践は夫差の死を憐れんで丁重に葬ります。そして、奸臣伯嚭をこのたびの騒動の元凶として処刑したそうです。

 呉の太伯から始まり600年以上の歴史を誇る呉は、この時滅びました。呉の故地はことごとく越が接収します。その後勾践は都を山東省の琅邪に移し中原の争いに介入しました。彼を春秋時代最後の覇者だという人もいます。ですが、越は勾践から6代あとの無彊(むきゅう)の時代、楚に侵攻して逆に敗れ楚の威王に滅ぼされます。BC334年の事です。その後も残党は生き残ったようですがBC306年頃までには完全に駆逐されたそうです。

 以後、越族は南下を続け福建省広東省、広西省に散らばります。その一部が南下してベトナムを建国した事は有名です。



 次回は、春秋時代の終焉をもたらした晋の分裂について記します。