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春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)中編

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 『孫子の兵法』の著者といわれる春秋時代の武将・軍事思想家の孫武(BC535年~没年不詳)。孫武の出自は陳から斉に亡命し最後は国を乗っ取った田氏だと云われます。BC517年頃田氏一族の間で内紛があり孫武は家族と郎党を率いて南方の呉に亡命しました。孫武本人は出世欲もなく、もともと家産も豊かだったので呉の政庁に貰った未開発の土地を開拓し定住していたようです。孫氏一族の住む村は、海音寺潮五郎の小説『孫子』では孫家屯と呼ばれたそうです。ただし、異説があり孫武は斉で隠棲していた、あるいはすでに先祖の代から呉に移住し自身は呉軍の下級士官だったとも云われます。私は孫武が名門田氏一族であった事、家産が相当ありわざわざ呉で仕官する必要がなかった事から亡命説を採ります。

 呉に落ち着いた孫武は田舎の地主という気楽さから、趣味の世界に没頭します。それが兵法でした。古今の戦史を調べ戦場を巡り、生き残った兵士から当時の状況を聞くなどして独自の兵法を完成させます。それが現在に至るまで最高峰だと評価される孫子の兵法ですから、いくら趣味だったとしてもただものではなかったのでしょう。いつしか彼の評判は人材コレクターの公子光にも届きます。光の使者として伍子胥が孫家屯に赴いたそうですが孫武は最初仕官の話を断りました。ただ、伍子胥との交流は続き時には戦争に際して策を授けるなどしていたと云われます。

 なぜ孫武の話を長々続けたかというと、これから書く話どうも孫武から出た策のような気がしてならないからです。公子光が王位を狙っているという話は前に書きましたが、ある時公子光は廟堂で「楚と晋が本格的戦争に突入する気配があり、中原諸国の動向を探る必要がある」と述べ使者として公子季札を派遣するよう進言します。これは事実であり、こういう外交使者は中原の教養を身につけ世間にも賢人と評判の高い季札しか適任者はいなかったのですんなり決まりました。

 公子光は、その後病気になり大将軍の役職を返上します。楚との戦争は続いていましたから、軍を指揮する者として呉王僚の弟蓋余(がいよ)と燭庸(しょくよう)が選ばれます。二人は軍を率いて呉楚国境に出陣しました。公子光は、また王の太子で武勇の誉れ高い慶忌を中原の動静を探らせるという名目で衛に派遣するよう助言しました。その上で、光は自分の屋敷に引きこもります。軍事的才能では公子光に遠く及ばない蓋余と燭庸はたちまち苦戦に陥り戦いは膠着状態に陥りました。

 こうなると呉王僚のまわりに頼りになる味方が一人もいなくなってきている事はいくら阿呆でも気が付きます。ある日、公子光は病気が癒えたので王をお招きして酒宴を開きたいと申し出ました。警戒した僚ですが、公子光に軍を率いてもらわない事には二人の弟が危ないので断ることもできません。そこで公子光の屋敷まで護衛の兵士を並べる事、屋敷内にも王の衛士を置くことを条件に招待を受けます。

 当然これは公子光の陰謀でした。病気も仮病です。ただし、王がここまで警戒すると暗殺計画は難しくなりました。悩む光の前に勇士専諸が名乗り出ました。
「いくら武装した兵士を並べても料理を運ぶ給仕役までは目が届かないでしょう。私が給仕役になり王を刺しましょう」
こうして暗殺計画は成りました。4月の丙子の日だったと云われます。武装した兵士を地下室に待機させ、公子光は呉王僚を招待し饗宴を開きました。宴たけなわの時、光は足を痛めたと言って控室に退きます。呉王は美女たちの踊りに目を奪われていました。そこへ焼き魚の料理を給仕人が運んできます。給仕人は料理を並べて置こうとし魚の腹を探りました。中から出てきたのはひと振りの剣。専諸です。美女たちに注意が行っていた呉王は瞬間、胸に激痛を感じます。専諸の剣が深々と貫いていたのです。「何をする!」と叫ぶ間もなく絶命しました。

 専諸は、近くにいた呉王の家臣たちに斬り刻まれこれも即死します。それを合図に地下室から公子光の兵が踊り出てきました。呉王の家臣が謀叛だと騒ぎだす中、公子光も姿を現し
「呉国の王位は季札公子が継ぐのを承知しない以上、嫡流諸樊の息子である私が継ぐのが正統である。僚は王位を簒奪した者ゆえ、私が誅殺したのだ。不服の者は、立ち向かってくるがよい」
と大喝しました。王を殺されて大混乱に陥った家臣たちは、公子光の勢いに押されて思わず「光王万歳」と叫んで平伏します。クーデターは成功したのです。

 こうして公子光は、呉王闔閭(こうりょ、在位BC514年~BC496年)となります。闔閭は専諸を手厚く葬り、彼の家族を都に呼び寄せ厚く遇したそうです。専諸の子は、父の功績でのちに卿に取り立てられます。祖国の異変を聞いて外国歴訪中の季札公子が帰国しました。闔閭はこれを出迎え「貴方に王位をお返しします」と申し出ます。当然季札が断る事を見越してのポーズです。

 季札は、申し出を断り闔閭の臣下として仕える事を約束します。これを見ていた呉の国民は感動で涙を流したそうです。何もかも計算されつくした行動でした。蓋余と燭庸は、楚軍の包囲下にありましたが公子光が王僚を殺して自立したと聞き、楚軍に降伏します。楚はこの二公子を呉との国境に近い舒(じょ)に封じました。

 闔閭にとって残った悩みの種は、武勇で名高い呉王僚の太子慶忌です。これには要離が名乗り出ました。要離は呉王に無実の罪で家族を殺されたと称し衛にいた慶忌に接近します。これを信じた慶忌は要離を側近に取り立てました。同じ呉王に復讐心を持つ仲間だという事でしょう。慶忌は衛で義兵千人を募り呉に向かいました。長江まで達した時、十数隻の船に分乗し渡河しようとします。慶忌と同じ船に同乗した要離は、風が強くなり慶忌の注意が前に向けられた隙に、剣を抜きはなって慶忌の背中を刺します。「何をする!」と振り返った慶忌は犯人が信頼していた要離だと知り驚きます。
 「どうしてこんな事を?」と聞くと、要離は答えました。
「私は呉王に頼まれたのです。事が成った以上は殺してもらいましょう」覚悟をした男の言葉です。近臣たちは怒って要離を殺そうとしますが、慶忌はこれを押しとどめ、にっこり笑いました。
「この男は勇士だ。殺せば一日に天下の勇士を二人失う事になる。助けて呉に送り届け、この男の忠義を天下に示させるがよい」
そう言いながら、天下の豪傑慶忌は息絶えます。慶忌の家臣たちは、主君の遺言を守り要離を呉に送り届けました。しかし、慶忌は船が南岸に辿り着く前に
「私は主君の命で慶忌公子を殺した。しかし信頼してくれた公子を騙し暗殺した事は義に反する。このまま呉に戻って富貴の身分になることは義を重んじる士として許されない事だ」
そう言い残して、長江に身を投じました。

 即位した闔閭は功績のあった者たちを取り立てます。伍子胥も行人(外交官)となりました。後には客卿(外国人の卿という意味)に引き上げられます。孫武は名誉を求めない性格であったため、伍子胥は彼の授けた策を自分の案として闔閭に進言していました。事が成った今、伍子胥は友人に報いようと思います。闔閭に面会した伍子胥は、今まで自分が話した策はすべて孫武から出ていた事、彼のような異才を逃すことは呉の損失である事を熱心に王に説きました。

 孫武の名前を思い出した闔閭は、彼を自分の元に連れてくるよう命じます。喜び勇んだ伍子胥は早速孫家屯に向かい、渋る孫武を連れ出しました。ところがいざ面会してみると、闔閭はこの風采の上がらぬ男が神算鬼謀の持ち主とはとても思えなくなります。いたずら心を起こした闔閭は孫武に対して
「先生の記した孫子兵法書には感服した。しかし机上の空論という場合もある。兵法というのはいかなる場合にも適用できると言われる。そうだな、例えば後宮の美女たちでも立派な兵士として訓練できるかな?」
と問いました。
 そばで見ていた伍子胥は、悪ふざけが過ぎると苦々しく見守ります。同時に(王は孫武を用いる気がない事、孫武という異才を外国に逃す事になる)と思い暗澹たる気持ちになりました。

 
 孫武はこの無理難題にどのような形で応えるのでしょうか?そして闔閭の覇業の行方は?次回、後編でそれを述べる事としましょう。