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世界史英雄列伝(37) 春秋の大軍師 「范蠡」(はんれい)

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 中国春秋時代のクライマックス、呉越の戦いについては当ブログでも何度か紹介したと思います。しかしそれは伍子胥孫武など呉側の人物ばかりでした。今度はライバルである越王勾践(こうせん)側から見た呉越の戦いを描こうと思います。

 登場するのは越王勾践を助けて最後には呉を滅ぼした軍師、范蠡です。彼が初めて登場するのは紀元前496年のすい李(すみません、字が出てこない)の戦いでした。

 一時は中原に覇を唱えた呉の六代王闔閭(こうりょ)が、蛮族(越族、ベトナム人の先祖といわれる)でありながら金属資源などで急速に台頭してきた越を、後顧の憂いを断つために討った戦いです。

 圧倒的に強力な呉軍を前に、范蠡は奇策を献策します。越軍は罪人を集めた部隊を次々と呉軍の前に出し、挨拶をさせてからことごとく自刎させます。これは三隊も続きました。この驚くべき蛮勇に呉軍があっけに取られていたその瞬間、隙をついた奇襲部隊が側面や背後から呉軍に襲いかかります。


 文明圏である中原ではありえないような戦い方に呆然としていた呉軍がこれを支えられるはずもありません。またたくまに壊走し闔閭はこのときの戦傷がもとで死去します。


 いまわの際に、闔閭は太子の夫差に遺言しました。
「お前は父のこの屈辱を忘れてはならんぞ」
 王位を継いだ夫差は、以来薪の上に寝て、痛みと共に復讐を忘れないようにして機会を待ちました。
(臥薪嘗胆の故事)


 三年がたちました。夫差が日夜復讐を企み軍隊を訓練していると聞いた越王勾践は、逆に先手を打って呉を討とうとします。しかし范蠡はこれを諌めました。
「今は戦うべき時ではありません。先年の戦いの傷も癒えておりません。国力を蓄えるべきです」

 しかし、勾践は反対を押し切って出兵します。夫椒山で逆に呉軍に大敗し五千の手勢とともに会稽山に立て籠もった勾践は、死を覚悟しました。

 「諦めるのは早うございます。呉王の側近伯嚭(はくひ)は賄賂に目がないとか。彼に大金を贈ってとりなしを頼んでは?重宝を献上し、ひたすら王に仕えると言えば呉王とて考えを変えるはずです。」
 この范蠡の献策によって、越は大夫の文種を呉の陣営に遣わします。

 賄賂が効果を発揮したのか、勾践は許されました。夫妻ともども呉の王宮で奴隷のごとく仕えた勾践を見て夫差は、安心し帰国を許します。


 范蠡は、さらに国一番の美女西施を呉王に贈り夫差を油断させました。一方、勾践も屈辱を忘れないように苦い肝を舐めて日夜復讐を誓います。(嘗胆)


 越に対しすっかり警戒心を忘れた夫差は、亡父の遺志を継ぐべく連年のように中原に出兵します。さらに越から贈られた莫大な財宝と美女によって贅沢の限りをつくした呉は、次第に国力を衰退させていきました。

 このような夫差に対し、呉を支えてきた名臣たちはあるいは去り、あるいは殺されてしまいます。残されたのは伯嚭のような奸臣ばかりとなっていました。


 呉王夫差は、中原の大国晋と会盟し主導権を争うばかりになっていました。父闔閭が実力では凌駕していながら、ついになし得なかった快挙です。会盟を主導することができれば、名実ともに覇者になれるのですから。


 ところが、留守を守る国許から急使が飛び込んできます。長年沈黙を保っていた越が挙兵し、呉の都を囲んでいるというのです。


 夫差はこのことを隠し、軍隊による示威行動で晋公を脅しなんとか会盟に成功すると急遽国許に戻りました。


 さしもの強兵である呉軍も、連年の戦いで疲弊し何度かの戦いの末、王城のある姑蘇(いまの蘇州)に包囲されてしまいます。

 夫差はかって勾践の命を助けたことを思い出し和平の使者をだしました。越王はこれを許そうとします。しかし范蠡は、諌めました。
「いけません。かって天が越を呉に賜ったのに、夫差は天命に逆らってこれを取らなかったのです。今天は呉を越に賜ろうとしています。天が与えたものを受け取らないとかえって罰を与えられます。
 そのいい例が今の呉王ではありませんか。王にはよろしくご賢察ください」

 それでも勾践は夫差の命をとるのが忍びず、孤島に流して命だけは助けようと申し出ます。使者の復命を受けた夫差は
「越王のご厚情には感謝しますが、私はすでに老いました。とても王にお仕えする事はできません。」
そう言って自ら命を絶ちました。
 


 こうして呉を滅ぼした勾践は、北上して斉・晋の諸侯と会盟し周室に貢物を献上しました。覇者となって得意の絶頂にあった勾践に、范蠡は引退を申し出ます。

 「長年苦労を共にしてきたそなたに、これから報いようとしていたところだ。考え直すことはできぬか?」

 勾践の引止めにもかかわらず、范蠡は固辞しついに越を去りました。さらに宰相となっていた文種に書面を送ります。
「越王はその人相を観ていると、苦労は共にできても楽しみはともにできない相です。このままでは貴方の行く末は危うい。早く去ったほうが良い」
【『飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる』(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われ、狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまう】というのはこのときの范蠡の言葉だといわれています。


 文種はこれを読んで、病と称し屋敷に引きこもりました。しかし、王の側近が
「文種は反乱を起こそうとしております。病と称して朝廷に出てこないのがその証拠です」と讒言します。これを真に受けた勾践は文種を捕らえようとします。ついに文種は自害しました。
「あのとき范蠡の言う事を聞いて引退すべきだった。私の迷いが今日の結果となったのだ。」



 
 一方、范蠡はどうなったのでしょうか?鴟夷子皮(しいしひ)と名を変え、斉に移り住んだ彼は、軍師の才を商売に生かし巨万の富を築き上げます。ある人が彼の正体に気付き斉の宰相として迎えようとしているのを聞いた范蠡
「家にいては千万の富を蓄積し、官については卿相となる。富貴は長く続くものではない」という言葉を残すと、財産を整理し持ち運べるものだけを選んで、のこりはことごとく使用人や友人知人に分け与え再び去っていきます。


 陶(山東省西部、東西交通の要地で当時商業で栄えていた)の地に落ち着き朱公と名乗った范蠡は、ここでも財を築きました。
 朱公(范蠡)の商売は、農業・牧畜を基本とし安いとき安いところで商品を仕入れ、高い時高いところで売るという方法でした。十分の一の利益を心がけ、時機をみて財物を転がし、ここでも数億の富を蓄積するようになりました。陶朱公といえば、大富豪の代名詞とも言われています。


 このあともエピソードがあるのですが、もはや紙面もつきました。その話は別の機会に譲るとしましょう。いかがです、まさに人生の達人ともいうべき生涯ではありませんか?