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春秋戦国史Ⅶ  呉王闔閭(こうりょ)後編

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 呉王闔閭(こうりょ)の無理難題「後宮の美女を訓練して精兵に鍛え上げろ」という要求に対し孫武「承知いたしました」と答えます。王のそばで見ていた伍子胥はそれまでおどおどしていた孫武が自信ありげな態度に変わったのをみて意外に思います。さすがの孫武も自分の信ずる兵法を馬鹿にされて怒ったのだろうと解釈しました。

 後宮の美女500人が矛や剣を持たされて練兵場に呼び出され王の寵姫二人がそれぞれ隊長に任命されます。美女たちは遊びだとしか思っていません。調練するのも仙人のような男です。孫武が兵士の動きをくどいように説明して太鼓の音で動作を指示しますが、そのたびに笑いが起こりました。台上で見ていた闔閭も腹を抱えます。

 三度それが繰り返された後、孫武は傍らの吏士に尋ねました。
「指揮官の命令に背く者がいた場合、軍法ではどうなっている?」これに対し吏士は「斬刑に相当します」と答えます。
「よろしい」孫武は吏士たちに命じ二人の寵姫を捕えさせました。美女たちは初めて顔色を変えます。台上の闔閭は様子がおかしいので使者を送り孫武を呼び寄せました。
「先生が兵法に熟達しているのは分かった。先生の斬ろうとしている二人は、私が最も寵愛する者たちだ。どうか処刑を止めてはくれまいか?」

 しかし孫武は冷然と言い放ちます。「王はすでに私に軍を任せられました。私は将軍として部隊を訓練しているのです。軍中にあっては君命を受けざることもあります」そういって容赦なく二人の寵姫の首を打たせました。孫武はそれに次ぐ身分の女官を新たな隊長に命じ調練を再開します。もう笑う者は一人もいませんでした。孫武は使者を王のもとに送ります。
「ご命令通り後宮の美女の兵ができました。王には閲兵を願います」しかし、闔閭は「もうよい」といって立ち去ろうとします。伍子胥は王の袖を引っ張り訴えました。
「軍において最も大事なものは軍律だと思います。孫武はそれを示したに過ぎません。最初は王の戯れから出た言葉でもひとたび将軍に任ずればそれは戯言では済まないはず。もしここで孫武を逃がせば、王の覇業はなりませんぞ」
 闔閭も凡庸ではありません。伍子胥の忠言を受けその日のうちに孫武を職は将軍、身分は客卿に登用します。

 呉は伍子胥孫武という双璧を得てますます軍容を盛んにしました。ところで楚ではBC516年すでに平王が亡くなっていました。後を継いだのは秦の公女が生んだ昭王(在位BC515年~BC489年)。伍子胥は昭王に恨みを引き継ぎます。楚は連年の呉軍の侵入に困り果てていました。楚の群臣は呉が攻めてくるのは伍子胥が楚に深い恨みを抱いているからだと解釈します。

 そこで、左司馬(軍の師団長級の官職)沈尹(しんいんじゅつ)が楚の公族で権勢を誇っていた将軍子常に進言します。「楚が今日困難を迎えているのはすべて奸臣費無忌の策謀が原因です。楚の国民も怨嗟の声を上げています。費無忌を誅殺しなさい。さすれば貴方様は国民から感謝され、王のおぼえもめでたくなりますぞ」
 子常は楚の荘王の末子子囊(しどう)5世の孫で本名囊瓦(どうが)。欲深な人物ではありましたが物の道理の分からない人物ではありません。平王が死に後ろ盾をなくして微妙な立場になっていた費無忌に遠慮する必要もありませんでした。子常は数日後軍を率いて費無忌の屋敷を襲撃、これを殺します。楚の国民は貴賎を問わず皆喜んだそうです。

 また、呉に亡き廃太子建の忘れ形見公子勝がいる事を掴んだ楚は、秘かに勝を連れ出し白に封じ厚遇しました。ところがこういう楚の姑息な工作は逆に伍子胥の怒りを増幅させます。

 BC506年、呉王闔閭は楚に止めをさすため呉軍の主力を率いて出陣しました。その数5万。孫武伍子胥が付き従っていた事は言うまでもありません。孫武はこの時のために着々と布石を打っていました。楚の衛星国であった蔡と唐を寝返らせていたのです。この二国は、楚に苦しめられこそすれ恩義など感じていません。ただ楚に対抗しうる晋に頼るのは遠すぎて無理でした。孫武は外交交渉で呉の味方に引き入れます。といっても呉はもともと蛮夷の国。孫武は信用を得るため連年の戦で楚軍を破り続けていたのです。

 蔡と唐の援軍を加えた呉軍は、長江の北岸を楚の都郢(えい、湖北省江陵県)に向かい一直線に進みます。楚は総大将を子常、副将には沈尹戌を任じ10万という大軍を集めます。さすがは晋と並ぶ大国でした。両軍は柏挙でぶつかります。

 沈尹戌は呉軍が侮りがたい難敵であると判断し慎重論を述べます。ひとまず楚軍の主力は呉軍と対峙し自分は別働隊を率いて背後から攻撃するという作戦を立てました。子常は最初この作戦を採用しますが、側近が「沈尹戌の策で勝っても功績はすべて彼に行きます。楚軍は呉軍に倍する兵力を持っているのだから、このまま進めばからなず勝てるでしょう。さすればすべて将軍の功績になりますぞ」と言われてその気になりました。そして沈尹戌が別働隊を率いて出て行ったあと、すぐ出陣の命令を下します。

 一方、呉軍でも作戦会議が行われていました。孫武は敵将沈尹戌は名将だから、彼の動きを見極めて動いても遅くないと主張します。ところがこれに闔閭の弟、公子夫概(ふがい)が異を唱えました。「楚軍は浮足立っているはず。戦は勢いです。一気に攻撃にかかれば楚軍は必ず潰走するでしょう」

 しかし、夫概の意見は容れられませんでした。憤慨した夫概は勝手に抜け駆けして楚軍の本営に襲いかかります。明らかな軍紀違反です。ちょうど子常も出陣の準備に入って陣中は混乱しておりタイミングがピタッと合います。もちろん呉軍に有利、楚軍には不利な状況です。報告を聞いた孫武は眉をひそめますが、この功機を逃すわけにはいきません。全軍総攻撃を仕掛けました。浮足立った楚軍は四分五烈になって潰走します。子常は富貴の身分に生まれたので出世したに過ぎません。我慢心もなく「再起を図る」と称し遠く鄭まで逃げたそうです。

 楚の主力軍の壊滅で、呉軍はやすやすと楚都郢を陥れます。昭王は近臣だけを連れて逃亡しました。肝心の昭王に逃げられ憤懣やるかたない伍子胥は、平王の墓を暴き死体を引き出します。そして恨みを込めて鞭打ちました。これが「死屍に鞭打つ」という故事の由来です。

 明らかな軍律違反でも、勝利のきっかけを作った夫概は王の弟という事もあって罪は不問にされます。夫概の驕慢はますます激しくなりました。郢に入った呉軍は、信賞必罰がなされなかった事もあって軍紀が緩みます。そんな中、沈尹戌が残兵をまとめ再び呉軍に挑戦して来ました。戦場は雍筮(ようぜい、ぜいの字は本来はこの字にさんずい)。またしても夫概は抜け駆け奇襲を図ります。

 しかし、沈尹戌には通用しませんでした。夫概の手兵五千は瞬く間に包囲され身動きが取れなくなります。呉王闔閭は弟の勝手な行動に怒りながらも救出しなければならないので全軍渡河を命じました。沈尹戌はこの事を予測し葦原に伏兵を潜ませます。その上でわざと退却し呉軍を誘いました。楚軍弱しとみた呉兵は追撃にかかります。ところが呉軍の戦線が延び切ったところで楚軍は戦車を連ねて反撃に移りました。凍りつく呉軍。その瞬間背後から無数の矢が飛んできました。沈尹戌の用意した伏兵です。

 今度は呉軍が潰走する番でした。呉王闔閭はわずかの部下と共に戦車で逃げました。沈尹戌はそれを追いながら「あの珠玉で飾った冑を来ている者こそ呉王ぞ。逃すな!」と叫びます。慌てて闔閭は冑を脱ぎ捨てました。すると沈尹戌は再び「あの緋色の戦袍を来ている者こそ呉王ぞ。討ち取れ!」と叫びました。闔閭は戦袍を脱ぎ捨てます。
 沈尹戌は三度「あの冑も被らず戦袍を脱ぎ捨てている者こそ呉王である。討ち取って手柄にいたせ」と叫びました。九分九厘沈尹戌の勝利です。闔閭の命も風前の灯でした。

 ところが勝ち誇った楚軍の背後に混乱が起こります。実は孫武はこの事を予測して軽兵を楚軍の背後に回していたのです。楚兵は自軍の背後から攻撃を受け、寝返りが出たと勘違いします。疑心暗鬼は瞬く間に伝染し、ついには我先にと逃げだしました。これを見て陣を立て直した呉軍は攻勢に転じます。沈尹戌は四方から攻撃を受け壮烈な戦死を遂げました。

 死に際し、沈尹戌は「私はかつて呉王に仕えた事がある。死後に呉王に合わせる顔もない。誰でも良い、私の首を隠してくれないか」と遺言しました。これを受けて呉句卑(ごこうひ)という者が名乗り出ます。「拙者にお任せ下され」
 沈尹戌は「おう、そなたがおったか。よろしく頼む」といい自害しました。呉句卑は沈尹戌の首を戦袍で包み、遺骸を隠していずことなく落ちていきます。

 雍筮の辛勝は呉軍の軍紀を締め直すには好機でした。ところが最大の難敵が間もなく迫ろうとしていました。秦が楚の窮状を見て援軍5万を送り出してきたのです。一度負け癖がつくと国民軍は雲散霧消するものですが、人間心理というのは面白いもので勝ちそうだと分かるとどこからともなく義兵が湧いてきます。今回も楚軍は10万近い大軍が集結したといいます。

 さすがに、呉軍は精強でしたので数で劣っても負けることはなかったのですが、出陣した隙に楚都郢でも義兵が起こり少数の守備隊を殺し楚秦連合軍を引き入れたのです。呉軍にとって間の悪い事に、雍筮で失策を演じた夫概公子が罰せられる事を恐れ秘かに呉に逃げ帰りそこで謀叛を起こし呉都姑蘇城を占領してしまいます。

 このままでは根なし草になる事を恐れた闔閭は、無念の思いで兵を引きました。夫概の反乱自体は簡単に鎮圧されます。呉王闔閭は、大国楚を滅ぼすことはできませんでしたがあと一歩まで追い詰めたことで実質的な覇者となりました。その兵威を恐れかつての大国斉ですら闔閭の太子波の妻に公女を送り出します。事実上の人質です。楚の昭王はようやく故国に戻れますが、すでにかつての勢威はありませんでした。楚と呉の間にある諸侯国は、楚を離れことごとく呉に入朝します。

 闔閭は、斉の公女のために望斉門を築いて慰めました。ですが故郷を遠く離れて心細かったのか公女は間もなく病死します。心優しい性格だった太子波は、彼女を愛していた事もあり衝撃を受けこれも病を得て亡くなりました。太子を失った悲しみも癒えない闔閭でしたが、次の太子を決めないといけません。闔閭の次子夫差は、楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を頼ります。伯嚭は「王が最も信頼するのは伍子胥です。彼に頼めば太子になれるでしょう」と助言しました。

 夫差は、驕慢な性格でしたが太子になるために伍子胥にへりくだって接します。伍子胥は王に進言し夫差が太子になる事は成功しました。これを静かに見ていた孫武は、驕慢な夫差が王になり欲深で狡猾な伯嚭が国政を司るようになればわが身が危ないと悟ります。孫武は、引退を願い出ました。王からも伍子胥からも引きとめられますが孫武の意志は固く最終的には受け入れられました。闔閭は孫武の長年の功績を考え富春の地を与えます。孫武はこの地で静かに世を去ったと言われます。


 蛮夷の国『呉』を一代で中原に覇を唱える強国に育て上げた希代の英雄、呉王闔閭にも最期の時が迫っていました。次回、闔閭の死と呉越の戦いを描きます。