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房総戦国史外伝  房総武士の最期

 房総戦国史を書き終えた今、まだ余韻が冷めません。最後のほうはしょりすぎて千葉氏などの滅亡の様子をあっさり書きすぎたと反省し、此処で補足的に記す次第です。


『下総千葉氏』

 実は千葉氏宗家は、重臣原胤房と円城寺尚任の対立の時滅びています。原氏が古河公方成氏に付き、円城寺氏が関東管領上杉氏に味方して合戦し、宗家十六代の胤直をどちらの陣営に取り込むか争ったと書きましたが、結局胤直は円城寺陣営が取り込みました。原陣営の千葉一族馬加(まくわり)康胤・孝胤父子は、千葉城の胤直・宣胤父子を襲撃、敗れた胤直は志摩城に、息子の宣胤は多胡城に脱出しますが、馬加・原連合軍は追撃の手を緩めず結局ここも落とされて胤直・宣胤共に自害、千葉宗家は滅亡します。1455年の事です。

 古河公方成氏は馬加康胤を新たな千葉家督に据え、以後康胤の系統が嫡流になりました。ですから他の千葉一族はますます千葉宗家を軽んじるようになり衰退に拍車がかかります。一方関東管領上杉氏は、馬加康胤の千葉宗家継承を認めず胤直の弟賢胤の子実胤を取り立て市川城に置き千葉宗家を継がせました。これが武蔵千葉氏です。ですから千葉氏は大きく下総千葉氏と武蔵千葉氏に分裂したわけです。

 千葉氏が、千葉城を捨て佐倉に本拠を移した理由は馬加千葉氏が宗家を継いだからです。千葉氏の新たな本拠本佐倉城は馬加康胤の子輔胤が築城したと言われます。

 結局武蔵千葉氏も北条氏に属し、北条氏から婿養子に入った直胤に乗っ取られます。宗家を継いだ馬加千葉氏ですが、古河公方陣営から北条氏に素直に移行し最後まで運命を共にします。秀吉の小田原攻めの際には、千葉一族で3千の兵をあつめ小田原城に籠城したそうです。この時、上総・下総で小田原入城した主な武士を記すと、東金酒井氏150、土気酒井氏300、庁南武田一族1500、臼井原氏1500、万木土岐氏1500、小金高木氏700、下総相馬氏(千葉一族)100などでした。

 もともと千葉氏の重臣だった原氏は、宗家を凌ぐ勢いになり北条氏に直属する独立勢力になります。千葉氏がいかに弱体化したか分かりますね。多くの関東武士が小田原城に入城したのは当主を人質に取られていたからでした。千葉氏も例外ではなく、最後の当主重胤(三十一代、1576年~1633年)も幼少の身を小田原城で人質同然の境遇に置かれていました。

 名家好きの徳川家康は、小田原攻めの前秘かに千葉氏に使者を送り「千葉氏が北条の姻戚とはいえ、家をまっとうするためには良く考えた方がいい。秀吉による天下統一の動きを理解すべきである」と告げさせました。動揺する千葉家中でしたが、当主重胤を人質に取られている現状ではどうにもならず結局北条氏を運命を共にします。北条氏が滅亡すると千葉氏も同罪とされ領地没収。重胤は諸国を放浪し1633年江戸で亡くなったそうです。享年58歳。平安時代からの長い歴史を誇る名族千葉氏はここに完全に滅亡します。千葉一族では庶流の陸奥相馬氏が関ヶ原のごたごたも上手く凌ぎ切り相馬中村藩六万石を明治維新まで維持させた事と比べると大違いでした。


『上総酒井氏』

 実は酒井氏の出自についてはよく分かっていません。遠江出身で徳川譜代の酒井氏と同族という説もあれば、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、土岐氏説があってそれぞれ一長一短あるそうです。上総酒井氏は、里見氏と北条氏の抗争に翻弄され最後は北条方に属し小田原陣を迎えます。徳川譜代の酒井氏と同族という線を強調しうまく立ち回って生き残る道もありましたが田舎豪族にそこまで求めるのは酷でしょう。結局領地没収で滅びました。ただ子孫は徳川家の旗本として取り立てられ生き残ったそうです。


『上総武田氏』

 上総武田嫡流庁南武田氏の最後の当主は、甲斐の武田信玄の子豊信だという説があります。私には資料的裏付けがないので何とも言えませんが、豊信は信玄の三男で庁南武田家に養子に入って家督を継いだとされます。他の上総武士と同様北条氏に属し徳川家康の大軍に攻められ落城、自害したと言われます。異説としては城を逃れ信濃松代に至りそこで余生を過ごしたそうです。松代は武田氏所縁の真田氏が領主でしたのであり得る話ではあります。

 有力庶家真里谷武田氏最後の当主信高(信応の息子)も、北条方として徳川勢に攻められ真里谷城開城。下野の那須氏を頼って亡命、その地で没したと伝えられます。息子たちは後に徳川氏に仕えたそうです。最盛期には二十八万石にも及んだ上総武田氏ですが、その滅亡はあっけないものでした。



『万木土岐氏

 実は万木土岐氏に関しては過去記事『万木城のお福女さま』で触れています。覚えていらっしゃる方はほとんどいないと思いますが…。ちなみにアドレスはこちら↓


 最盛期には夷隅郡十万石とも称する勢力を誇りましたが、里見方から北条方に乗り換えたのが命取りになりました。といっても当時の里見氏は滅亡寸前で、まさか巨大勢力北条氏が滅ぶとは思えませんから、土岐氏の判断を責めることはできません。土岐氏も美濃土岐氏の同族と言われますが分かりません。

 万木土岐氏最後の当主頼春(1546年~1590年)は、小田原の陣の時小田原城に籠城していたという説、本拠万木城に居たという両方の説がありますが、里見氏と徳川家康の先鋒本多忠勝勢に攻められ滅ぼされました。頼春の最期に関しても諸説があり落城時に自害したという説、生き延びて小浜海岸から小舟で脱出、三河に落ちのびて余生を送ったという説があります。

 私としては、本人が生き残るくらいなら娘のお福女さまを生かしてほしかったと心の底から思います。過去記事を読まれた方なら共感していただけると思います。彼女の最後はあまりにも可哀想でしたから。








 以上、房総の主要な武家の最期を描きました。九州に住む私にとっては遠い世界ですが、伝統を誇る千葉氏の興亡、里見氏や上総武田氏に代表される新興武士の歴史を眺めると感慨深いものがありますね。