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房総戦国史Ⅸ  房総戦国時代の終焉

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 第二次国府台合戦の敗北で里見氏の拡大路線は終わりました。逆に勝った北条氏康は下総・上総方面へと進出します。その頃関東管領上杉謙信は北条方に寝返った下野の小山氏、常陸の小田氏を攻めていました。北条氏康と同盟していた甲斐の武田信玄は北信濃・西上野方面に進出し謙信の背後を脅かします。そして1564年(永禄七年)4月、信玄と謙信の対決した最後の戦い第五次川中島合戦が起こるのです。

 北条氏康は、上杉謙信と一度もまともに戦おうとしませんでした。おそらく謙信は戦国時代でも一二を争う戦上手で、そんな相手と直接ぶつかる愚を避けたのです。一方、謙信は政略の面では氏康にかなり劣りました。氏康は、謙信が関東に居る間はおとなしく小田原城に引きこもり、謙信が本国越後に戻った冬の間に謙信に奪われた城を奪い返すと言う事を繰り返します。同時に調略も進め関東管領陣営の切り崩しを行いました。

 結果、謙信は戦では勝っても領土を獲得することが難しくなっていきます。まさに氏康政治力の勝利でした。武蔵の成田氏、下野の小山氏、常陸の小田氏らが次々と氏康に寝返ります。そんな中、里見氏は行きがかり上謙信に属し続けました。ところが氏康と謙信が対武田信玄で同盟を結ぶと里見氏は孤立します。そこへ調略の手を差し伸べたのは武田信玄でした。結局越相同盟は決裂し、里見氏は再び謙信と結ぶのですがおそらく当時の関東で反北条氏を貫いたのは安房の里見氏と常陸の佐竹氏だけだったでしょう。どちらも本国への北条軍の侵攻を撃退したという共通点があります。

 1567年(永禄十年)8月、北条軍は上総に侵攻し里見義弘の本拠佐貫城の北方5キロの地点三船山に布陣します。ここは義弘の父で隠居していた義堯の籠る久留里城からも17キロしか離れていませんでした。里見氏絶体絶命の危機です。氏康の長子氏政が指揮した大軍でした。おそらく三万近い数だったと思います。すでに里見氏の重臣正木時忠も夷隅郡の土岐為頼も北条軍に降っていました。

 義弘は、重臣の正木憲時(時茂の養嗣子)とともに出撃し三船山の北条氏政本陣に襲いかかります。地の利を知りつくした里見軍の攻撃に北条軍は慌てふためきこれを支えきることができませんでした。北条軍は敗走し殿をつとめた太田氏資が戦死するほどの大敗北を喫します。海上でも里見水軍が北条水軍を撃破したため北条勢は上総を撤退しました。こうして里見氏は九死に一生を得、滅亡を免れます。

 ただ北条氏は、この時150万石から200万石に膨れ上がっており30万石前後の里見氏が太刀打ちできるはずはありませんでした。ではなぜ滅亡を免れたかというと、上杉謙信のおかげなのです。謙信は生涯で32回も遠征を行っていますがそのうちの半分以上の17回は関東への遠征でした。残りは6回が北信濃、9回が北陸方面です。

 上杉軍に背後を衝かれる事を恐れ、北条氏康は本格的な下総・上総侵攻ができませんでした。同じ事は常陸の佐竹氏にも言え謙信のおかげで家を保つことができたと思います。謙信自身は関東遠征でほとんど得ることはありませんでしたが、佐竹氏と里見氏にとっては救世主に等しかったのでしょう。

 氏康が1571年(元亀二年)56歳で死去し長男氏政が家督を継いだことも里見氏を楽にしました。武将としての器量が父と子で大きく違ったからです。1578年(天正六年)、北条氏に奪われた上総の失地を回復中だった里見義弘は48歳の生涯を終えます。後を継いだのは弟(庶長子という説もあり)義頼(1543年~1587年)でした。

 里見義頼の家督相続にはひと悶着があり、もともとは義頼が受け継いだのは安房一国のみ。上総の里見領は義弘の遺言で義弘の嫡男義重が受け継ぐはずでした。分割相続に不満を持つ義頼は、あろうことか北条氏政と結んでしまいます。北条氏の援軍を得た義頼は、甥の義重を上総に攻め捕えて出家させました。その際、この暴挙に反抗した里見家の柱石ともいうべき重臣正木憲時を粛清しています。

 血なまぐさい手段で里見氏の家督を奪った義頼は、目的を達成するとあっさりと北条氏を裏切りました。戦国の習いなのでしょうが、私はこの信義に反する行動が後の里見氏滅亡につながったのだと思います。

 
 時代は、里見氏や北条氏の預かり知らぬところで大きく動いていました。中央では織田信長の後を受けた豊臣秀吉がすでに九州から中部地方まで統一しています。最後に残った北条氏を屈服させるため秀吉は氏直(氏政の嫡子。家督を継いでいた)に上洛を命じました。ところが、氏政(隠居していたが権力は維持していた)は時代の流れを読むことができず、これを拒否。当然北条氏のこのような反応は織り込み済みの秀吉は、30万とも号する天下の大軍を率いて1590年(天正18年)小田原攻めを開始します。

 里見家は義頼の長男義康(1573年~1603年)の時代でしたが、さすがに北条氏よりは天下の情勢を読む事が出来ました。北条氏と常に敵対していたことが幸いしたのです。義康は、いち早く徳川家康に接近し、家康の斡旋で秀吉に拝謁、遅参を咎められるも最終的には安房一国と上総の所領を安堵され安房守の官位と羽柴姓まで与えられる厚遇を受けます。

 北条氏は本拠小田原城に籠りますが、秀吉の本隊に城を囲まれ関東各地の支城群は各個撃破されました。房総方面を担当したのは徳川家康で、下総千葉氏、上総の酒井氏、土岐氏など最後まで北条方だった諸氏がこの時滅ぼされます。完全に孤立した小田原城は開城し、氏政、氏照切腹、氏直は助命されたものの高野山に追放されました。

 小田原陣の後、上総・下総を含めた北条氏の旧領は徳川家康のものとなります。その石高250万石にも及びました。里見氏は、同じ新田源氏出身という誼で(どちらの出自も怪しいものですが…)徳川家に付き従います。

 しかし、自分の本領の目と鼻の先に外様の有力大名がいることは徳川家にとっては目障りで、結局関ヶ原の合戦後里見家は大久保忠隣失脚事件に連座、本領安房国九万石を召しあげられ常陸鹿島三万石に転封されました。しかし処分はこれでは終わらず伯耆国倉吉に移されますがここで改易を申し渡されます。

 結局新田源氏の誼は何の力も発揮できなかったのです。里見氏の滅亡で房総半島は徳川氏の完全な領土となりました。房総地方の戦国時代は小田原陣と共に終わりを告げ、以後この地方は天領譜代大名の領地に細かく分割されます。江戸時代は一大消費都市江戸の食糧基地として発展していくこととなりました。