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房総戦国史Ⅰ  戦国時代に至るまでの房総半島

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 現在の千葉県にあたる房総半島の名前は、千葉県最南端の安房国と中部の上総、北部の下総から来ています。安房国の名前の由来は四国の阿波国徳島県)です。ここあたり音が一緒なら漢字は適当なのはよくあることで、『古語拾遺』という古典によると阿波国穀物や麻を栽培していた天富命が配下の忌部(いんべ)氏などを率い海路黒潮に乗って半島南端に至り開発したのでその故郷に名前から阿波→安房になったのだそうです。

 一方、上総下総はあわせて総(ふさ)の国と呼ばれていました。総とは麻のことで、ここも忌部一族の麻栽培と関係しています。古代の関東地方は、上野、下野(古代毛野【けぬ】国に由来)、常陸といった北関東と相模、房総半島南部が開けていて、関東の中心部である武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川の一部)は一番開発が遅れました。武蔵国は武蔵野の言葉通り一面の原野が広がっていたと言われています。ちなみに、古代の東海道は相模から武蔵には至らずに海路上総、安房方面に伸びていたそうです。

 最初に関東地方に根を下ろした武士団は桓武天皇を祖とする平氏でした。ところが平将門の乱(939年~940年)、ついで平忠常(上総氏、千葉氏の祖)の乱(1028年)で勢力をすり減らし鎮圧した清和源氏の家人に落ちぶれます。ただし平忠常の乱を鎮圧した河内源氏源頼信陸奥守頼義の父)と忠常一族との間には密約があったらしく忠常が罪に服すかわりに一族に累は及ばない事を約束したのではないかと思います。実際忠常の子孫から上総介氏、千葉(介)氏が誕生しました。

 忠常の子孫のうち、千葉介は千葉郡(現在の千葉市あたり)を支配する下総介(国司の次官)でしたが、上総介氏に至っては介職を世襲しながら上総一国を支配するほどの大勢力に成長します。実際、上総介氏三代の上総介広常源頼朝挙兵時二万騎という大兵力を率いて参陣するほどでした。二万騎というのは上総の石高(太閤検地で三十七万八千石)からいっても考えられない数字ですが(国中から徴兵しても当時の人口からいって3000~4000人くらいが限界)、それだけ他を圧倒する大勢力だったのでしょう。広常はその大勢力を背景に頼朝に対して驕慢な振る舞いが目立ちついには頼朝に警戒されて粛清されてしまいます。

 その後上総国は、大勢力が誕生せず戦国期に至ります。一方、下総は平野が多く開発すれば大人口を養えるだけのポテンシャルを持っていました。太閤検地時代で三十九万石と上総とほとんど変わりませんが江戸末期には六十八万石にまでなりました。このため、古代からこの地に根付く千葉氏も一国支配はできず、下総のうち千葉県からはなれ茨城県編入された結城郡、豊田郡、猿島郡、岡田郡などの所謂常総地区には小山氏の一族結城氏が興ったほか数々の御家人領となりました。

 安房国は戦国初期に里見氏が土着するまでが良く分かっておらず、長狭郡に東条氏、朝夷郡に丸氏、安房郡に神余(かなまり)氏、平(へい)郡に安西氏がそれぞれ割拠していたようです。鎌倉時代に誰が守護をしていたかさえはっきりしていません。


 地理に目を転じると、坂東太郎といわれる日本第二の大河利根川(一位は信濃川。流域面積なら利根川が日本一)は中世までは江戸湾に注いでいました。現在の銚子が河口になったのは江戸期で徳川家康が治水工事を命じたと言われています。中世当時の房総半島北東部銚子方面は霞ヶ浦水系と鬼怒川河口で複雑な地形を形成する大湿地帯だったそうです。これらの基本知識を前提として書き進む事にしましょう。

 ただしまだ戦国時代には突入しません。房総半島の歴史に大きくかかわる千葉一族の事を語らねばならないからです。次回、千葉氏の盛衰について記します。