鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

ドゥダーエフ将軍とチェチェン紛争

イメージ 1

イメージ 2

 1996年4月、世界中に衝撃のニュースが駆け巡ります。チェチェン独立運動の指導者ジョハル・ドゥダーエフ大統領がロシアのミサイル攻撃で暗殺されたと云うものです。携帯電話の通話中にその電波をたどって発射された空対地ミサイルでの爆殺は、近代戦の脅威を象徴するものとして私自身大変驚きました。原理的にはレーダー波を受信しそこへ向けて自らを誘導する対レーダーミサイルと同じものなので、おそらく爆殺に使われたのはソ連製のKh-22PかKh-31P/PMあるいはその類似ミサイルだったのでしょう。

 ドゥダーエフ大統領は、1944年生まれ。チェチェン人ですが家族は第2次世界大戦中スターリン強制移住カザフスタンに追放されます。おそらく彼もカザフスタンで生まれたのではないかと思います。その後許されて1957年故郷に戻る事が出来ました。

 ドゥダーエフは、ソ連軍の士官学校に進みチェチェン人として初の空軍少将、空軍師団長に昇進します。最後の任地はエストニアのタルトゥ。ソ連崩壊時、激化するエストニアの民族運動を鎮圧するようソ連中央に命じられますが、民族派に理解を示していたドゥダーエフはこれを拒否。そのため彼はエストニア人から反乱将軍と呼ばれ称賛されました。

 1990年5月、彼の評判を聞いて秘かに彼のもとを訪ねてきたチェチェン人の代表団は独立運動のリーダーになる事を懇請、彼もこれを受け入れ軍を退役し故郷チェチェンに戻ります。1990年11月、ソ連邦内の自治共和国だったチェチェン・イングーシ自治共和国は独立を宣言。ドゥダーエフは初代大統領に就任しました。が、ソ連解体後ロシアの権力を握ったエリツィンは独立を認めず1994年12月大軍をチェチェンに投入して鎮圧を図ります。これが第一次チェチェン紛争です。

 ではチェチェンとはどういう国か、その成り立ちから説明しましょう。カスピ海黒海に挟まれ北西から南東に連なるコーカサス山脈を中心とする山岳地帯をコーカサス(ロシア語呼称カフカス)地方と呼びます。この地は古代から民族の十字路で、印欧語族、トルコ(チュルク)諸族、北コーカサス諸族の入り混じった複雑な土地です。チェチェン人は、この中の北コーカサス語族ナフ語派に属します。北コーカサス諸語は孤立語でこの地域にしか分布していません。専門的にはこれを言語島と呼ぶそうですが、一説によると、これも孤立語であるイベリア半島バスク語との関係を指摘する専門家もいるそうです。

 ギリシャ・ローマ時代、古コーカサスはイベリアと呼ばれていました。古代この地からイベリア半島に移住した民族がバスク人の先祖であり、イベリア半島の名称もこれに由来すると云う説です。なかなか興味深い話です。


 チェチェンは、コーカサス山脈の北麓に存在し大きさはだいたい日本の四国くらいです。人口は110万ちょっと。国土の大半は山岳地帯。西隣のイングーシ人と同族だと云われますがロシア帝国の侵略に早くから従ったのがイングーシ人、最後まで抵抗したのがチェチェン人でこれが両者を分けたのだと云われています。チェチェン人はイスラムスンニ派シャーフィイー学派を信仰し宗教の面でもロシア正教のロシア人とは相いれない存在でした。

 チェチェン人は、ロシアの征服後も抵抗を続け紛争が絶えませんでした。さらに問題を複雑にしたのはこの地にバクー油田という最大の油田が見つかった事です。バクー油田は中東各地で大油田が発見されるまでは実に世界の石油産出の50%という莫大な産出量を誇っていました。バクー以外にもコーカサス各地に油田が見つかり資源の面からもロシアは絶対に手放したくなかったのです。

 エリツィン大統領は、チェチェンに大軍を送り込み独立運動を封じ込めようとします。チェチェン人はまともにぶつかっては勝ち目がないのでゲリラ戦で対抗しました。ロシア軍の鎧袖一触と思われた紛争は予想外のチェチェン人の抵抗で泥沼化します。というのも、ソ連解体後に軍を一度大幅削減したためロシア軍には新兵が多く、最新兵器は持っていても士気が低かったといわれています。一方、チェチェン軍はソ連軍出身者が多くアフガニスタンへも従軍経験があるベテランでした。チェチェン軍はロシア軍を市街戦に誘い込み、破壊されたビルの陰などから無警戒のロシア軍戦車をRPGなどのロケット弾で飽和攻撃を掛け多くの戦車を破壊します。

 これに対しロシア軍は、大規模な空爆を敢行しクラスター爆弾、サーモバリック爆弾、はては通常弾頭を積んだ弾道ミサイルさえ撃ちこみました。これは無差別爆撃で、無関係のチェチェン一般市民も多くが犠牲となります。その数20万!ロシアは世界中から非難の的となりました。しかしロシア軍の攻撃は執拗で、反乱の指導者ドゥダーエフ将軍を爆殺することで戦局の打開を図るのです。指導者を失ったチェチェン独立派は、抵抗を持続することができず結局1996年8月、休戦協定が結ばれました。

 しかし紛争はこれで終らず、1998年にイスラム武装勢力チェチェンに入り込み再び紛争が再開しました。これもエリツィンの後を受けたプーチン大統領の徹底的な武力弾圧で鎮められます。(第二次チェチェン紛争


 20万人にも及ぶ難民を出し、チェチェン全土を荒廃させた紛争がこれで収まるわけがありませんでした。武力による独立が達成できないと分かるとチェチェン人はテロに走ります。イスラム原理主義勢力が多数入り込みモスクワ劇場占拠事件、モスクワ地下鉄爆破テロなど多くの事件を起こしました。最近ではソチ冬季五輪を妨害する目的でロシア各地でテロ事件が起こったのは記憶に新しいところです。

 ロシア人も、チェチェン人も互いに拷問、強姦、略奪、殺人、民族浄化を繰り返しどっちもどっちと言えます。ただ、ロシアはチェチェン独立派を国際テロ組織の一員と国際社会に印象付けるのに成功しました。といってもチェチェンに平和が訪れる道は遠いと思います。時に激しく燃え上がるチェチェン人の闘争はロシアがこの地から完全に手を引くまで続くはずです。