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フォークランド紛争Ⅳ   激闘

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 1982年5月1日午後、フォークランドのアルゼンチン軍に艦砲射撃をするイギリス機動部隊に向けてアルゼンチン本土よりダッソー・ミラージュⅢ戦闘機とIAIダガー戦闘機(イスラエル製)に護衛されたダグラスA-4スカイホーク攻撃機(機数不明)が来襲します。イギリス軍はV/STOL(垂直/短距離離着陸)機シーハリアーFRS.1戦闘機を発進させて迎撃しました。

 ここに史上初めてV/STOL機が空中戦を行いました。結果はミラージュⅢ2機、ダガー2機撃墜、英軍の損害ゼロ。ハリアーの優秀性をまざまざと見せつけた戦いですが一般に言われているように垂直離着陸機の特性を生かした高機動(空中停止、垂直上昇)を生かしたのが勝因ではありません。やはり敵機の前方から撃てるAIM-9Lサイドワインダーの威力が大きかったと見るべきでしょう。AIM-9Lはフォークランド紛争の空中戦において命中率実に86%を誇ったと言われます。

 いくら垂直離着陸できると云ってもハリアーのエンジンも他の機体と同様ターボファンジェットエンジンである事は変わりません。ただハリアーロールスロイス・ペガサスエンジンは推力を生じる噴射口が4つあり、それが可変式で推力偏向出来るという事なのです。ターボファンエンジンは吸気口から取り入れた空気をファンで振り分け一部をバイパスに回し残りをコンプレッサー(圧縮機)で圧縮します。圧縮空気は燃焼室で燃焼され高圧タービン、低圧タービンを通して高温高圧噴流となります。これと外側をバイパスした空気が合わさって噴流の速度が平均化され噴射口から噴出されます。これが推力となるのです。

 ですからハリアーの垂直離陸をよく観察すると垂直に上がるのではなくちょっと斜め前に進んでいる事が分かります。ということは、おいそれと空中で停止したり垂直上昇できるわけがありません。出来ない事はないと思いますが、吸気の恩恵を受けないためエンジンの負担が増大して大量の燃料を消費するからです。

 この時点でイギリス海軍機動部隊はハーミズに12機(第800飛行隊)、インヴィンシブルに8機(第801飛行隊)のシーハリアーしかありませんでした。一方アルゼンチン空軍はミラージュⅢ×20機、ダガー×30機、シュペル・エタンダール×4機、A-4スカイホーク×60機、IA58プカラ攻撃機(アルゼンチン製)×60機、B-62キャンベラ爆撃機(イギリス製)×9機という戦力でした。いくらシーハリアーが優秀でも数の上での劣勢は否めません。

 アルゼンチン空軍は本土から500km、一番近い基地から600kmの地の利を生かし、さらに空母からも発進できるという有利さを持っていました。ただミラージュⅢ(戦闘行動半径290km)、ダガー(戦闘行動半径1200km)
は十分な護衛を攻撃機隊に与えることができずその点だけが不利でした。

 5月2日、フォークランド紛争の帰趨を決める重要な戦闘が行われます。午後4時攻撃型原潜コンカラーがアルゼンチン軍で二番目に大きい巡洋艦ヘネラル・ベルグラノを撃沈したのです。この時コンカラーが使用した魚雷は当時最新式だったタイガーフィッシュではなく旧式のMk.8だったと伝えられます。タイガーフィッシュは音響誘導式重魚雷ですが不発が多く、より信頼性の高い無誘導のMk.8を使用したそうです。一説にはタイガーフィッシュの炸薬量が134kgしかなくアメリカのブルックリン級軽巡であるヘネラル・ベルグラノを一発で撃沈できない万が一の可能性を危惧しMk.8を選択したとか。Mk.8は炸薬量363kgありますからね。

 軍事や戦史に疎い方は御存じないと思いますが、ブルックリン級というのは軽巡でありながら重巡並みの重装甲を誇りその中の1隻である「ウィチタ」は主砲を8インチ砲に換装され重巡として使用されたくらいです。炸薬量云々は十分あり得る話だと思います。

 ヘネラル・ベルグラノ撃沈はアルゼンチン海軍を驚愕させました。と云うのも満足な対潜能力を持たないアルゼンチン海軍にとってこれはフォークランド海域を自由に航行できないという事だからです。しかも原子力潜水艦は食糧弾薬のある限り何日でも潜っていられます。アルゼンチン海軍はフォークランド海域からすべての艦船を退避させました。

 フォークランドのアルゼンチン軍は海からの補給を断たれ、イギリス海空軍の空爆の合間をぬっての細々とした空中輸送しか手段がなくなります。一方、イギリス軍も本土から1万2千km離れているという不利を最後まで克服できませんでした。

 イギリス軍がフォークランドを奪還するためには地上軍の上陸が要です。揚陸艦輸送艦は東フォークランド島の北西沿岸に上陸を試みます。アルゼンチン空軍はこれを叩きました。5月4日アルゼンチン空軍のシュペル・エタンダール攻撃機2機はフランス製エグゾセ空対艦ミサイルを英機動部隊に向けて発射します。Sエタンダールは海面上15mという低高度を飛んで接近したためイギリス海軍はこれをレーダーで捕捉できなかったそうです。エグゾセは2発発射されそのうちの1発がレーダーピケット任務中の英TYPE42駆逐艦シェフィールドに命中します。幸いにしてミサイルは不発だったそうですが燃料に引火し艦は炎上。乗員は総退艦し結局5月10日浸水が酷くなって沈没します。同じ5月4日、シーハリアーもアルゼンチン軍の対空砲火で1機が撃墜されました。5月10日英TYPE21フリゲート「アラクリティ」の砲撃でアルゼンチン軍輸送艦撃沈。5月12日アルゼンチン空軍スカイホーク8機、TYPE42駆逐艦グラスゴー」爆撃、損傷を与える。英軍艦対空ミサイル「シーウルフ」の反撃で3機撃墜さる。
このようにイギリス軍も一方的優勢ではなく苦戦を続けました。


 5月14日、ついにイギリス軍の本格上陸作戦が発動します。その前にSAS(英陸軍特殊空挺部隊、世界最高の特殊部隊と言われる)が事前に隠密上陸していました。SASはアルゼンチン軍守備隊の手薄な地点を探り、どのルートから攻撃すれば効率的かすでに調べ上げていました。

 英軍はまずぺブル島の飛行場をSAS1個中隊で急襲、プカラ攻撃機など11機すべてを破壊。これでアルゼンチン軍在フォークランド航空兵力の3分の1を喪失させます。イギリス第3海兵コマンド旅団は東フォークランド北西海岸サンカルロスに上陸し橋頭保を築きました。

 アルゼンチン軍も黙っておらず揚陸作業中の英軍を航空攻撃、5月23日にはスカイホークが1000ポンド(454kg)爆弾でTYPE21フリゲートアンテロープ」を大破(24日沈没)、25日にはTYPE42駆逐艦「コヴェントリー」を撃沈するなど大きな損害を与えます。イギリス本土では「マレー沖海戦以来の失態」という非難がイギリス軍上層部に浴びせられました。軽空母しかなかった英機動部隊は早期警戒機を持たなかったのです。またCIWS(近接防御火器システム)などが全艦に配備されていなかったことも災いしました。以後、イギリス海軍はヘリの早期警戒機とCIWS装備に力を入れて行くこととなります。

 5月17日、コンテナ船で運ばれてきた地上型のハリアーGR.3 6機がフォークランドに展開します。この辺りから次第にイギリス軍有利に戦局は移り始めて行きました。主力の上陸を終えたイギリス軍は5月26日から進撃を開始します。まずは東フォークランド中央部、陸地が狭まりチョークポイントのポートダーウィンとその南にあるグースグリーン飛行場を目指します。ポートダーウィン攻略は海兵隊空挺第2大隊、第3大隊の担当でした。極寒の中、イギリス軍はアルゼンチン軍防衛線を難なく突破、ヘリボーンでポートダーウィン背後に進出した空挺第2大隊は港を包囲。5月28日午前3時、砲兵と攻撃ヘリの援護の下突入したイギリス軍はポートダーウィンを奪回します。ただ隘路の南側にあるグースグリーン飛行場はアルゼンチン軍の重厚な防御陣地が構築されており、苦戦が必至でした。アルゼンチン軍守備隊のメネンデス将軍もこの戦域の重要性を承知しており増援を送り込んでいました。

 空挺第2大隊のジョーンズ中佐が敵弾を受けて戦死するほどの激戦でしたが、兵力で2倍以上のアルゼンチン軍を猛攻したイギリス精鋭部隊に恐れをなしたグースグリーン守備隊を圧倒、午後9時までにグースグリーンのアルゼンチン軍防御拠点はすべて陥落します。この戦闘でイギリス軍は戦死者12名、戦傷者31名を出します。アルゼンチン軍の損害は甚大で戦死者100名、戦傷者120名、捕虜1400名以上を数えました。

 グースグリーン陥落で東フォークランド島北東部に追い詰められたアルゼンチン軍は、ポートスタンレーを中心に防御陣地を布いてイギリス軍を待ちうけます。イギリス軍は北ルートと南ルートから進撃し5月31日北ルートを進んだ第3海兵コマンド旅団主力はポートスタンレー西方20kmのケント山に進出します。南ルートの海兵隊空挺第2大隊もその南東のツーシスターズ山西斜面を占領しました。

 アルゼンチン軍敗北は時間の問題でした。しかしポートスタンレーにはイギリス系市民300人ほどが人質同然に残されています。攻撃は慎重を要しました。6月1日、イギリス政府はアルゼンチン政府に対しフォークランド諸島からの撤退を要求する最後通牒を突きつけます。アルゼンチンはこれを拒否。6月8日イギリス軍の増援第5歩兵旅団がポートスタンレー南西のフィッツロイとブラフコーブに上陸。アルゼンチン軍はこれを察知し激しい空爆を敢行します。イギリス軍揚陸艦「サー・ガラハド」を撃沈するなど大きな損害をイギリス軍に与えますが抵抗はここまででした。6月11日午後9時、ポートスタンレー南東に終結したイギリス機動部隊はアルゼンチン軍に艦砲射撃を開始します。12日未明にはバルカン戦略爆撃機による空爆もこれに加わりました。実戦経験に乏しいアルゼンチン軍はこの攻撃で大混乱に陥ります。

 翌12日午前、イギリス地上軍の攻撃でポートスタンレー外郭陣地がすべて陥落、アルゼンチン軍はポートスタンレーを守る最終防衛戦「ガルチェリライン」に退きました。5月13日午後10時半、ガルチェリラインの突出部タンブルダウン山陥落、突出部の南から攻撃に加わった第5歩兵旅団第7グルカ兵連隊もウィリアム山を激戦の末占領します。6月14日、ガルチェリラインは事実上崩壊しました。同日午後3時、アルゼンチン軍現地司令官メネンデス少将は停戦を受け入れる用意があるとイギリス軍に申し出ます。

 6月19日には、南サンドイッチ島のアルゼンチン軍も駆逐されました。73日続いたフォークランド紛争は激戦の末イギリス軍の勝利に終わります。敗戦に激怒したアルゼンチン国民の激しい突き上げでガルチェリ大統領6月17日辞任。サッチャー首相はフォークランド奪回で支持率84%にまで上昇しました。

 ただイギリスにとっても手放しで喜べる状況ではありませんでした。紛争の前の段階に戻っただけ。これ以後年間450億円と云う維持費を負担せざるを得なくなるのです。アークロイヤル退役によって浮いた費用以上の莫大な出費でした。アルゼンチンはこの敗戦で国際的威信が失墜します。内政は混乱し国勢の回復は未だなされていません。

 誰かが冗談で言っていましたが、イギリスはサッカーは近年振るわないが戦争だけは恐ろしく強い。衰えたとはいえ、大英帝国を舐めるのは厳禁だという事でしょう。日本もこうありたいですね。