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フォークランド紛争Ⅱ   アルゼンチン軍フォークランド侵攻

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 アルゼンチン軍のフォークランド本格侵攻に行く前に、本編と直接関係ないサウスジョージア島攻防戦に付いて簡単に記します。

 フォークランド侵攻の陽動として始まった同島侵攻ですが、いくらフォークランド諸島と1000km離れているとはいえサウスジョージア島が健在だと英艦隊はこの島で補給できフォークランドに対する圧力が増すと考えてのアルゼンチン軍の行動でした。1982年3月26日未明同島に上陸したアルゼンチン軍海兵隊500名はリース湾に陣取ります。氷海巡視船に乗って同島に来ていたイギリス海兵隊22名は警備行動としてリース湾巡回を本国政府に打診しますが、この段階でもまだ平和解決を模索していたイギリス政府はこれを禁止。

 4月1日に入ると、アルゼンチン軍の行動はより大胆になりアルゼンチン国旗を掲げ自国の領土のようにふるまいました。フォークランドへの本格進攻が4月2日ですから、すべてが予定の行動だったと言えます。同日深夜にはさらにアルゼンチン軍フリゲートもこれに加わります。すでにフォークランドでは本格戦闘が始まっていました。

 最初、アルゼンチン軍はイギリス守備隊に降伏勧告しますが、当然イギリス側は拒否。わずか22名の海兵隊+現地の警備兵は多勢に無勢ながら絶望的な防衛戦を繰り広げました。しかし数には勝てず11時30分ころ降伏。

 イギリス軍のサウスジョージア島本格奪回は4月20日に入ってからでした。イギリス軍は駆逐艦「アントリム」、フリゲートプリマス」、補給艦「タイドスプリングス」に海兵隊110名、SAS(英陸軍特殊空挺部隊)D中隊の一部、SBS(英海軍特殊舟艇部隊)若干名を乗船させ現地に向かわせます。所謂「パラケット作戦」の発動です。

 まず4月21日、SASとSBSの特殊部隊が偵察上陸悪天候に悩まされながらもアルゼンチン軍防衛線の手薄なところを探りました。ところが周辺海域にアルゼンチン軍潜水艦「サンタフェ」が遊弋しているとの報告を受け、艦船は一時退避します。4月25日、アントリムとプリマスは機動部隊から派遣されたフリゲートブリリアント」と合流、対潜哨戒でサンタフェの位置を特定、艦載対潜ヘリ「リンクス」や艦船から発射した爆雷とMk46短魚雷、AS-12有線誘導ミサイルで大破に追い込みます。結局サンタフェは沈没こそしなかったものの島の沿岸に座礁擱座し、乗員は全員上陸し脱出しました。

 4月25日正午艦砲射撃の援護の下先遣隊の海兵隊75名が上陸、アルゼンチン軍は抵抗の無駄を悟って降伏します。わずか2時間の戦闘でした。



 本題に戻ります。フォークランド諸島は南太平洋上にある絶海の孤島でイギリス本土からは1万2千km。アルゼンチンからは500kmの距離にあります。島の歴史の経緯に関しては省略しますが当時は3000名弱ほどのイギリス系住民が住んでいました。大きく西フォークランド島と東フォークランド島の2つに分かれ若干の島々が付随します。人口の大半は東フォークランド島に集中し同島の東にあるポートスタンレーには実に人口の3分の2に当たる2000名ほどが居ました。

 1982年3月下旬、アルゼンチン海軍はウルグアイ海軍との軍事演習と称して空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とする駆逐艦7、フリゲート3、輸送艦3、揚陸艦1からなる第79機動部隊を出動させます。艦隊には陸軍4000名が同乗していました。イギリス側はこの動きを把握していましたが、英首相サッチャーに報告が入ったのは1982年3月29日、目標がフォークランドだとはっきりしたのは3月31日でした。

 当時フォークランド島に居たイギリス軍は海兵隊79名、海軍水兵数十名のみで勝ち目がないのは明らか。戦闘機はおろか装甲車などの戦闘車両さえない状態だったのです。フォークランド総督ハントは即座に機密書類の処分と暗号機の破壊を命じポートスタンレー空港を閉鎖します。同日夜8時、ハント総督は全島民に対し事情を説明し徹底抗戦すると宣言しました。


 イギリス政府は、不測の事態に備え3月28日攻撃型原潜をフォークランド海域に出発させます。4月2日午前3時、アルゼンチン軍は900名の海兵隊を東フォークランド島ポートスタンレー近辺に上陸させました。アルゼンチンとしてはなるだけ民間人の犠牲を避け素早く掌握することで国際世論の非難を避けるつもりでした。アルゼンチン軍は劣勢のイギリス現地軍は戦わず降伏すると高をくくっていたようですが流石ジョンブル魂、ポートスタンレー民政庁に立て籠もったイギリス海兵隊31名、水兵11名と戦闘になり逆に数名の死傷者を出す結果になります。ただ、アルゼンチン軍主力部隊がポートスタンレー空港を占領し補給の望みを完全に断たれたためハント総督は午前9時半、全面降伏しました。

 その間もアルゼンチン軍の増援は次々と上陸、ハント総督とその家族、民政庁員、海兵隊兵士は強制退去させられます。彼らはウルグアイ経由で本国に送還されました。


 「フォークランド、アルゼンチン軍に占領さる」の報告はサッチャー首相のもとにもたらされます。閣議は紛糾しました。弱気な発言をする閣僚が多い中、サッチャーは彼らを一喝します。
「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」という有名な発言はこの時のことだと言われます。また「この内閣には男は一人しか居ないんですか!」と言ったとも伝えられます。

 サッチャーは知っていたのです。国際社会では一度譲歩するととことん付け込まれるという事を。安易な譲歩で未来永劫たかられるなら、どんなに犠牲を払っても毅然たる態度を崩してはならないのです。特には強硬手段も辞さない覚悟。我々日本人からすると耳の痛い話ですね。

 イギリス政府の態度は決しました。武力奪還すると。当時イギリスは英国病と云う不況に悩まされていました。にもかかわらずサッチャーはイギリスの全力を挙げて戦う決意を示します。


 イギリス軍の動きと、外交、特にアルゼンチンとも関係の深いアメリカの態度は?アルゼンチンに武器を売却しているフランスの態度は?次回、本格的に動き出したイギリス機動部隊の戦いを描きます。