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イラク戦争の教訓   ②第101空挺師団の強襲

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 最初に軍事や戦史に興味がない方(まあそんな人は記事読まないでしょうが…)に、空挺師団とは何ぞや?というところから説明しなければなりますまい。
 
 
 空挺師団というのは、もともと輸送機などで敵前線後方に落下傘降下し要地を占領する部隊を指します。機動性はあるのですが、その分武装は貧弱で単独で長期間戦い続けることはできません。降下占領後すみやかに進撃してきた友軍と合流しなければ壊滅してしまいます。友軍との合流が遅れるのは致命傷で、第2次大戦においてマーケットガーデン作戦などの悲劇が起こりました。
 
 戦後、ヘリコプターが発達してくると米軍は輸送ヘリと攻撃ヘリを組み合わせることで空挺部隊の生存性を高める事を考えました。そうして再編成されたのがヘリコプター強襲部隊としての第101空挺師団です。
 
 アメリカ陸軍はこの第101空挺師団に期待し強力な装備を集めました。2003年当時の師団戦力は、総兵力18000人、AH-64Dアパッチ・ロングボウ攻撃ヘリ×72機(3個大隊)、UH-60ブラックホーク汎用ヘリ×126機(3個大隊)、CH-47Dチヌーク大型輸送ヘリ×48機(1個大隊)、OH-58D斥候ヘリ×24機(1個大隊)という恐るべき戦力でした。これは日本の陸上自衛隊の全ヘリ保有数にも匹敵し戦力は遥かに上回ります。
 
 
 第101空挺師団は、3個空挺歩兵旅団を隷下に持ち装備する火砲(105㎜榴弾砲M119×18門など)も含めてすべてを自前のヘリ部隊で運べました。湾岸戦争でも大活躍し、アメリカ軍は第101空挺師団の威力に絶対の自信を持っていたのです。
 
 
 イラク戦争当時数の劣勢を質でカバーしようと、米軍は第101空挺師団にしばしば長距離強襲作戦を命じました。先鋒として進撃する第3歩兵師団(実質はM1A2エイブラムス戦車247両を擁する機甲師団)の後方で取り残された敵部隊の掃討を空中機動師団の機動力に期待したのです。
 
 
 開戦から4日目の2003年3月24日、第101空挺師団はイラク軍の最精鋭、共和国親衛隊のメディナ戦車師団撃滅の命令を受けます。戦車の天敵であるアパッチ・ロングボウ攻撃ヘリヘルファイア対戦車ミサイルを満載して発進しました。
 
 ところが空軍との連絡が上手くいかず空爆直後に戦車部隊に襲いかかるはずが悪天候のせいもあり30分以上も予定より遅れます。そしてこの時間はイラク軍が攻撃に備えるには十分な時間でした。
 
 
 アメリカ軍の戦法が空爆の後攻撃ヘリの強襲であるというパターンはとっくにイラク軍に知れ渡っていました。アパッチ部隊はイラク軍の濃密な対空機関砲、対空砲の待ち構える中突入したのです。最初に突入した第11攻撃ヘリ連隊は市街地やヤシ林に巧みに偽装されたイラク軍のM1939 37㎜対空機関砲、ZPU-4 4連装14.5㎜対空機関砲をはじめとするあらゆる対空兵器の洗礼を受けます。
 
 イラク軍も馬鹿ではありません。湾岸戦争で痛い目にあった経験を生かしヘリの侵入ルートを想定し防空陣地を構築していたのです。第11攻撃ヘリ連隊は30機のアパッチ攻撃ヘリすべてが被弾します。さすがに強力な装甲をもつアパッチ・ロングボウはわずか1機の損害だけで済みましたが、敵を完全に侮っていたアメリカ軍の衝撃は計りしれませんでした。
 
 以後もアパッチ・ロングボウは湾岸戦争時の無敵の攻撃ヘリとは違って戦争を通じ少なからず被害を出します。イラク軍は絶望的な戦況の中でも地形を最大限に利用し戦争とその後の占領時代を通じて連合軍は5000名以上(うち米軍は1687名)という戦死者を出しました。
 
 
 どうもアメリカ軍は、湾岸戦争のときと違い慢心があったように思えます。自軍の力に絶対の自信を持つがゆえに敵を侮り準備も情報収集もろくにせず攻撃を開始、思わぬ損害を出すケースが多く発生しました。
 
 
 このあたりが、現在世界最強を誇るアメリカ軍の弱点なのでしょう。