これまで476年西ローマ帝国滅亡から始まるヨーロッパ中世の歴史を眺めてきました。長い旅もそろそろ終わりに近づきつつあります。
最終章では、ヨーロッパ中世とは何だったかについて私なりの感想を書こうと思います。
1453年という年は、東でビザンツ帝国の滅亡西で百年戦争の終結と歴史上の大きな事件が同時に起こった年でした。またイベリア半島でも1479年カスティリア王国とアラゴン王国の統合でスペイン(イスパニア)王国の成立、1492年にイベリア半島に残った最後のイスラム勢力グラナダ王国がスペインに滅ぼされてレコンキスタが完了するなど15世紀の後半50年間はまさに一つの時代の終わりとも言って良い時期でした。
ヨーロッパ各国は中世と云う時を経て現在に繋がる国家の基礎を築きます。ヨーロッパ人にとって中世とは何だったのでしょうか?
まず農業生産面から見てみると、中世初期欧州の小麦収穫率(1粒から何倍収穫できるかの量)は2倍ほどしかありませんでした。それが三圃制農法と云う耕作地を3つに分け、それぞれ冬畑、夏畑、休耕地にわけ輪作する方法の確立で収穫率5倍まで拡大します。
これに対し米は最も生産効率の高い日本のデータしかありませんが、中世期で20倍、近世の江戸期では40倍にも拡大していたそうです。ちなみに現代においても日本の米収穫率135倍に対して米国産小麦23.6倍、英国産小麦15.7倍と米作の方が耕地面積あたりはるかに大人口を養えます。ちなみに日本の小麦収穫率は51.7倍ですから日本の方がはるかに土地が肥えていたのです。その意味では日本は神に愛された国と言えるかもしれませんね。
欧州は寒冷で貧しい土地でした。その穀物生産量で支えられる都市人口も少なかったようです。15世紀のデータでもパリの24万(一説では8万)を最大としヴェネツィアの19万がこれに次ぎ10万台はガン、ブルージュやイタリアの諸都市など数えるほど、大半は5万以下で1~2万の小都市でした。
一方、バクダードの200万、コンスタンティノープルの100万など豊かな穀物生産地を後背地に持つ都市は大人口を抱える事が出来ました。
人口密度も低く特に中世初期の欧州は現在のイメージとはかけ離れた貧しいところだったのです。それでも欧州人の不断の努力によって農業生産は拡大し徐々にではありますが人口は増加していきました。ところがそんな時に襲いかかったのが黒死病(ペスト)です。ネズミなどが媒介するペスト菌による感染症で腺ペストと肺ペストがありました。腺ペストは高熱や悪寒を伴い最後はリンパ腺をやられ2~3日で意識不明のうちに死亡します。肺ペストはさらに凶悪で高熱を発するのは同じですが呼吸困難や血痰を伴いながら早い場合は24時間で死に至りました。
それまで文明度の高かったイスラム圏を追い越し、16世紀以降ヨーロッパの時代が到来します。レコンキスタを完了させたスペイン、ポルトガルのエネルギーは海外に向かいました。いわゆる大航海時代の始まりです。オランダ、イギリスがこれに次ぎ世界各地で植民地獲得競争を始めます。
欧州以外の住民にとっては迷惑この上ない事でした。しかし人類の発展と云う意味ではヨーロッパ勢力の拡大は必要悪だったのでしょう。
そしてヨーロッパ(アメリカ含む)一強時代に風穴を開けたのは19世紀に不死鳥のごとく世界史デビューを果たした我らが日本だったことを忘れてはなりません。