鳳山雑記帳はてなブログ

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中世イスラム世界Ⅴ  後ウマイヤ朝  後編

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 アッバース朝のイベリア総督、ユースフはアブドル・ラフマーン上陸の急報を受けると急いで総督府のあるコルドバに取って返しました。そして使者をアブドル・ラフマーンに遣わし懐柔策に出ます。
 
 自分の娘の婿になるよう申し出たのです。ユースフはタラゴーザの反乱を鎮圧するための時間が欲しかったのでしょう。一方、アブドル・ラフマーン側も精強なベルベル人騎兵を伴ってきていたとはいえまだまだ弱小でアッバース軍との対決に自信が持てませんでした。
 
 両者の利害は一致し、婚約は成立します。しかし実際に結婚まではこぎつけなかったようです。互いに一時の方便としての和睦策だったのかもしれません。
 
 
 756年3月、アブドル・ラフマーンはイベリア西南の重要な港湾都市セビリアを占領します。ユースフは大軍を率いてコルドバから南下、ガダルキビル川北岸に布陣しました。ところがアブドル・ラフマーンは大軍と戦う愚を避け南岸の間道伝いに進軍しユースフのいないコルドバを急襲して占領します。
 
 
 あわてたユースフは軍を戻しますが、待ち構えていたアブドル・ラフマーン軍に奇襲され敗北しました。こうしてアッバース朝の総督を撃破したアブドル・ラフマーンはコルドバで即位、自らの王朝を建国します。これを日本では後ウマイヤ朝と呼びますが、西洋では「アンダルス(スペイン南部地方の地名)のウマイヤ朝」と呼ぶのが一般的だそうです。
 
 
 アブドル・ラフマーン1世(在位756年~788年)は、しかしあえてカリフと名乗らずアミール(アラビア語で司令官の意味)と称しました。カリフとはイスラム世界全体の指導者であるべきでメッカもメディナ保有していない自分には名乗る資格がないと思ったそうです。しかしアッバース朝のカリフも認めず、現在は正統なカリフがいないという立場でした。
 
 イベリア半島をほぼ手中に収めたアブドル・ラフマーン1世ですが、もともとこの地はローマの属州でキリスト教徒も多く統治は安定しませんでした。さらに彼が北アフリカから連れてきたベルベル人やアラブ人たちも王朝に心服したとは言えずしばしば反乱をおこします。彼の32年の統治は苦労に満ちたものだったようです。
 
 
 イベリア半島が敵に奪われたという報告を受けたアッバース朝第2代カリフ、マンスールはイベリア奪回に乗り出します。まず半島内のアラブ人たちを扇動し反乱をおこさせると、763年アル・アラー・イブン・ムギースに資金を与えイベリア総督の地位を約束して送り出しました。
 
 そのころアブドル・ラフマーン1世はマンスールの扇動によって勃発したアラブ人の反乱軍が籠るトレドを攻めていました。そんな中アル・アラーはポルトガル南岸べハー地方に上陸します。イベリアにアッバース朝の黒旗が翻るとそれまでアブドル・ラフマーンに押さえつけられていた不満分子が大挙してこれに参加、アル・アラー軍は見る見る大軍に膨れ上がりました。
 
 劣勢に立たされたアブドル・ラフマーン1世は最も信頼する手兵だけを引き連れセビリア東方カルモーナの町に立て籠もります。アル・アラーは大軍をもってこれを包囲、籠城戦は二カ月に及びました。
 
 アブドル・ラフマーン1世即位以来最大の危機です。しかしのちにクライシュの鷹と称えられるアブドル・ラフマーン1世は事態の推移を冷静に観察していました。包囲軍の士気が弛緩し始めたことを察知するや、精兵700名を選び西門からどっと押し出します。油断していたアル・アリー軍は不意を衝かれ大混乱に陥りました。
 
 乱戦の中、アル・アリー始め主だったアッバース軍の幹部は殺されます。敵軍は7000を失い潰走。アブドル・ラフマーン1世は敵将達の首を塩と樟脳の入った皮袋につめると、メッカへの巡礼に託して送り届けさせました。丁度メッカへ巡礼に来ていたマンスールは、そこで首を受け取り衝撃を受けます。
 
 「あのような悪魔と我々の間に海を隔てたもうたアッラーに感謝します」と叫んだそうです。こうしてアッバース朝からの干渉はひとまず排除されました。
 
 
 しかし後ウマイヤ朝の危機は続きます。今度はピレネーを越えてカロリング朝フランク王国カール大帝(シャルル・マーニュ)が大軍を率い侵入してきたのです。778年の事でした。カール大帝の言い分はもともとイベリア半島キリスト教側の土地であったのにイスラム勢力に奪われたということとカールの祖父メロビング朝の宮宰カール・マルテルがフランスに侵入したイスラム軍を撃退したツール・ポワチエ間の戦いの復讐戦というものでした。
 
 
 カール大帝は、内通を申し出てきたアラブ側の諸侯の反乱を期待していたそうですが、実はこれ自体アブドル・ラフマーン1世の謀略であったという説もあります。結局アラブの反乱は不発に終わり敵中深く進軍したフランク軍は孤立してしまいます。この世界史上有数の英雄同士の対決はアブドル・ラフマーン1世の勝利に終わりました。ピレネー越えの補給に無理があった事と、ウマイヤ軍の籠るサラゴーサ城を攻めあぐみカール大帝はついに撤退を決断します。
 
 ところが帰途をウマイヤ軍の待ち伏せに遭い山間部で奇襲され壊滅的打撃を受けて撤退しました。この時カール大帝の甥ロランが殿軍を引き受け壮絶な戦死を遂げます。この話はフランス最古の叙事詩ロランの歌として有名です。
 
 
 生涯の大半を戦いに明け暮れたアブドル・ラフマーン1世は32年の統治の末788年その波乱の生涯を閉じます。享年58歳。人に裏切り続けられた彼は晩年猜疑心の塊となっていたそうです。彼の苦労時代を支えた忠僕バドルさえ、驕慢になったと責められ晩年追放されています。
 
 
 後ウマイヤ朝は、コルドバを首都として栄えました。そして8代アブドル・ラフマーン3世(在位929年~961年)のとき初めてカリフを称します。同じころエジプトを支配したシーア派ファーティマ朝もカリフを称しましたから、イスラム世界は三人のカリフを頂く事となりました。
 
 
 世界史では後ウマイヤ朝を西カリフ国、ファーティマ朝を中カリフ国、アッバース朝を東カリフ国と呼びます。しかしこのころを境に王朝は衰退し始め9代カリフ、ヒシャーム3世(在位1027年~1031年)の時に滅亡しました。時はすでにレコンキスタの時代に突入し始めます。イベリア北方の山岳地帯に押し込められていたキリスト教勢力の反撃が始まっていたのです。
 
 
 1031年、ヒシャーム3世は大臣たちの評議会によって廃位されました。その後彼はトゥデラ太守のフード家スレイマーンに保護され1036年頃亡くなったそうです。以後イベリア半島イスラム勢力は多くの小国に分裂しキリスト教徒のレコンキスタの前に次々と滅ぼされる運命でした。