一つの王朝が滅びる時、敵はその致命的弱点を衝いてきます。ウマイヤ朝もまた同様でした。
ここにある一族が登場します。イスラム教の開祖ムハンマドと同じクライシュ族ハーシム家に生まれながらウマイヤ家が実権を握っていたために疎外されていたアッバース一族です。ムハンマドの叔父アッバースの子孫でありながらウマイヤ朝下では政権の中枢から外され不満を抱いていました。
この陰謀はウマイヤ朝側の察知するところとなりました。アッバース家の当主イブラヒームは749年捕えられ処刑されます。しかしその弟アブル・アッバースら14名は官憲の追捕を逃れイラクのクーファに潜伏しました。
同年12月、アブル・アッバースはクーファでカリフ就任を宣言、ウマイヤ朝との対決姿勢を鮮明にします。アッバース家はシーア派など反ウマイヤ勢力を糾合し瞬く間に大勢力になりました。これにはウマイヤ家のシリア勢力に圧迫されていたイラクやイランのシーア派住民の怒りが爆発したともいえるでしょう。
ウマイヤ朝は、反乱を鎮圧するため30万とも号される大軍を派遣しました。一方新興のアッバース軍はわずか1万2千しか集まらなかったそうです。両軍はティグリス河支流の大ザーブ川でぶつかります。ところが蓋を開けてみると士気旺盛なアッバース軍は嫌々動員されて士気の低かったウマイヤ軍を圧倒、アッバース軍の大勝利に終わりました。
ウマイヤ朝のマルワーン2世は、シリアに撤退し本拠だけは保とうとしましたがここでも一敗地に塗れエジプトに逃亡します。カリフに見捨てられた首都ダマスクスは、アッバース軍に占領されウマイヤ家所縁の者たちは逃亡した一人(アブドル・ラフマーン)を除いてことごとく殺されました。マルワーン2世自身もエジプト各地で敗北し部下は四散していきます。上エジプトのプシリスというところでアッバース軍に追いつかれ殺されました。時に750年8月初めの出来事でした。こうしてウマイヤ朝は滅亡します。
初代アブル・アッバース(在位750年~754年)は残虐な性格だったと伝えられています。それを示すエピソードも色々ありますが書くと気分が悪くなるので詳しくは紹介しません。あえて一つだけ例を上げるとヒシャーム(ウマイヤ朝第10代カリフ)の孫の一人は片手片足を斬り落とされ驢馬に乗せられてシリア各地を引き回されたそうです。あらゆる罵倒を浴びせられた公子は驢馬の上で衰弱し息を引き取りました。
ところが唐代の資料ではアブル・アッバースは寛大な国王だったと伝えられています。この違いは何でしょう?それぞれの立場によってその人物の評価がここまで違いのも珍しいと思います。751年には唐との間に世界史上名高いタラス河畔の戦いが起こっています。
第5代カリフ、ハルーン・アッラシード(在位786年~809年)時代がアッバース朝の最盛期だと云われますが、文化的にはそうでも領土はウマイヤ時代よりかなり縮小していたのです。
909年、チュニジアにシーア派のファーティマ朝が勃興、エジプトを征服します。アッバース朝は西半分の領土を失いました。945年には西北イランに同じくシーア派のブアイフ朝が成立、ブアイフ軍はバグダードを占領し、アッバース朝カリフを祭り上げ自分は大アミール(君公)と称し支配しました。ここからアッバース朝の形骸化が始まります。ただの権威だけの存在となったのです。
以後スルタンの称号は、イスラム世界の皇帝を意味するまでに発展します。同時にカリフは宗教上の権威に過ぎなくなりました。
1258年、バグダードの一地方政権に落ちぶれていたアッバース朝はモンゴルのフラグによって滅ぼされます。フラグは、モンゴル式の高貴な人物を処刑する方法、アッバース朝最後のカリフ、ムスタッシルを皮袋で包んで馬を走らせ踏みつぶし処刑しました。
こうしてアッバース朝は滅亡します。しかしその一族の者がマムルーク朝のバイバルスに保護されスルタンの権威を保つための象徴として祭り上げられました。血脈は1517年まで続きますが、オスマン帝国のセリム1世がエジプト征服をしたときに廃されました。最後のカリフ、ムタワッキル3世が亡くなったのは1543年だったと伝えられます。