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中世イスラム世界Ⅲ  ウマイヤ朝   前編

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 イスラム教の二大宗派スンニ派シーア派の一番の違いは何でしょう?ごく大雑把に言ってムハンマドの示したコーランの教えを重視するのがスンニ派、これに対してシーア派は偉大なる予言者ムハンマドの一族であるアリーの血統を重視しその子孫のみがイスラム共同体(ウンマ)の指導者として資格があるというものです。
 
 
 スンニ派シーア派の割合は9対1で圧倒的にスンニ派が多いのです。コーランの教えを重視するという教義は一般にも受け入れられやすく後の支配層にとっても統治の上で色々都合が良かったのです。一方シーア派はアリー終焉の地イラクからイランにかけて広く分布していますが、それ以外にはあまり広がっていません。
 
 
 シーア派では、アリーの息子フサインの妻がササン朝の血を引く女性だという伝承があり歴代イマーム(最高指導者)はアリーの血と共にペルシャ王家の子孫だという事でペルシャ人たちに受け入れやすかったといわれています。事の真偽は分かりませんがアラブ勢力に押さえつけられていたペルシャ人たちがシーア派を奉じる事でイスラム主流派に対抗できると考えても不思議はありません。
 
 
 そのためスンニ派ウマイヤ朝では初代ムアーウィア(在位661年~680年)の時代からシーア派に対して激しい弾圧を加えました。ウマイヤ朝は長い間ローマ帝国支配下だったシリアを本拠地にしたため、ペルシャ人に多数の信者がいるシーア派とは文化的に異なり地域対立の面もあったといわれています。
 
 
 ムアーウィアは、カリフが選挙で選ばれるためにその地位が安定せずしばしば暗殺の憂き目にあった事を考え、早くから自分の息子ヤジードを後継者に定めます。カリフの世襲制でした。ムアーウィアの生涯は、自分に反抗するイスラム教旧勢力との戦いに費やされます。
 
 晩年、死の床に着いたムアーウィアは後継者ヤジードに向かって
「アリーの息子アル・フサインはきっとイラクシーア派に担ぎ出されるだろう。その勢いを挫いた後は厚く遇してやれ。ウマル(第2代正統カリフ)の息子アブドゥーラは敬神の好人物ゆえ、そっとしておけ。だが一番気をつけるべきはイブン・アッズバイル(初代正統カリフアブー・バクルの長女の子)だ。あやつは獅子のごとく猛々しく、狐のように狡賢い男だ。必ず根元から滅ぼさなければならない」
と遺言しました。
 
 
 二代カリフに就任したヤジードは父の遺言を思い出しメディナの知事に密書を送って遺言にあった三人を確保するように命じます。ウマルの子アブドゥーラは素直に従い忠誠を誓いますが、フサインとイブン・アッズバイルは危機を察してメッカに逃亡しました。
 
 まず行動を起こしたのはアリーの息子フサインでした。680年イラクのクーファでシーア派が蜂起しアリーに出馬を促したのです。スサインは周りが止めるのも聞かずわずかな側近と共にイラクへ向かいました。ところが陰謀は事前に察知されクーファはウマイヤ軍によって制圧されます。
 
 フサイン軍わずか70名あまりは、ユーフラテス河の手前で待ち構えていたウマイヤ軍4000と絶望的な戦いに巻き込まれます。戦いというより一方的な虐殺でした。この戦いでフサインを含む兵士70名と女子供あわせて200名余りが殺されます。シーア派ではこれを「カルバラの悲劇」と呼び殉教したフサインの死を悼みました。
 
 
 フサインの一族はこの時ほとんど殺されますが、フサインの幼い息子アリー(小アリーと呼ばれる)と二人の娘だけは命を助けられヤジードのもとへ送られました。ヤジードはさすがに子供まで殺す事をためらい保護を加えてメディナに送り届けました。
 
 
 カルバラの悲劇が起こった日シーア派では毎年祭典が行われています。それだけシーア派にとって衝撃が深かったのでしょう。
 
 
 ただ戦いはまだ終わったわけではありません。メッカにはムアーウィアが最も警戒したイブン・アッズバイルが残っています。
 
 ヤジードとイブン・アッズバイル、両者の対立はどうなるのでしょうか?次回ウマイヤ朝最大の危機とその後を描きます。